シュリーヴィジャヤの海上交易
概要
マラッカ海峡を押さえ、インドと中国を結ぶ海の道で栄えた。仏教の学問の中心でもあった。
場所
-2.98°N 104.78°E · インドネシア(シュリーヴィジャヤの中心)
本文
東南アジアの海の道は、マラッカ海峡とスンダ海峡という二つの狭い水路で、インド洋と南シナ海を結んでいる。インドと中国を行き来する船は、季節風が変わるのを待つために、このあたりの港で何か月も過ごさなければならなかった。その港を押さえた者が、海の道の利益を握る。7世紀、スマトラ島南部のパレンバンを中心に興ったシュリーヴィジャヤは、その位置を最大限に生かした国である。
国の始まりを伝えるのは、パレンバン周辺で見つかった古マレー語の碑文である。682年の日付のある碑文は、ダプンタ・ヒャンという王が2万の兵を率いて遠征し、勝利を得たことを記す。686年の日付をもつバンカ島の碑文は、従わない者への呪いの言葉を並べ、ジャワへの出兵にも触れている。海峡の周りの港を武力で従わせ、交易をこの国の港に集める仕組みが、この時期に作られたとみられる。

シュリーヴィジャヤは、自分の土地の産物よりも、船の通行を管理することで栄えた。中国の記録は、この国が海峡を行く船を自国の港に寄らせ、従わない船を攻めたと伝える。港には香木や樟脳、象牙、胡椒のような東南アジアの産物が集められ、中国の絹や陶磁器、インドや西アジアの品と取り引きされた。王は唐やのちの宋の皇帝に使いを送り、朝貢の形で交易の特権を得た。中国の史書は、この国を室利仏逝、のちには三仏斉と記している。
アラビア語やペルシア語で書かれた9〜10世紀の地理書や旅行記にも、この海の国は「ザーバジュのマハーラージャ」の国として登場する。その王は毎日、金の延べ棒を宮殿の池に投げ入れ、王が死ぬとそれを引き上げて人々に分けた、という話まで伝えられている。真偽はともかく、西の商人たちの目にも、この国が途方もなく富んで見えたことがうかがえる。

この国は、仏教を学ぶ場所としても知られていた。唐の僧義浄は、671年にインドへ向かう途中ここに立ち寄り、半年ほどサンスクリットの文法を学んだ。インドのナーランダー僧院(ナーランダー僧院の創建)で学んだ後、帰りにも長く滞在して、経典を写し、翻訳した(義浄のシュリーヴィジャヤ滞在)。義浄は、ここには千人を超える僧がいて、インドと変わらない学問が行われている、インドへ行く中国の僧はまずここで1、2年学ぶのがよい、と書き残した。11世紀には、のちにチベットへ仏教を伝えたインドの僧アティーシャが、この地の師のもとで長く学んだとされる。
ジャワ島でボロブドゥール(ボロブドゥールの造営)を築いたシャイレーンドラ家とも、深い結びつきがあった。9世紀の半ばには、シャイレーンドラ家の王子バーラプトラがシュリーヴィジャヤの王となり、インドのナーランダーに僧院を建てたことが、インド側の碑文に記されている。

海の道を押さえる国は、海の道からの攻撃にも弱かった。1025年、南インドのチョーラ朝が艦隊を送り、シュリーヴィジャヤの港を次々に攻めた(チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征)。王は捕らえられたと、チョーラ側の碑文は誇っている。国はその後も続いたが、中心はスマトラのジャンビへ移ったとみられ、13世紀以降は、ジャワのマジャパヒト王国の隆盛などに押されて力を失った。14世紀の末、パレンバンの王族の一人が海峡の対岸へ逃れて開いたとされるのが、マラッカ王国である(マラッカ王国の成立)。
シュリーヴィジャヤの遺跡はあまり残っていない。建物の多くが木や竹で作られ、中心地が川沿いの湿地にあったためと考えられている。そのため長いあいだ、この国の名そのものが忘れられていた。1918年、フランスの学者ジョルジュ・セデスが、碑文の「シュリーヴィジャヤ」と中国の記録の室利仏逝を結びつけ、ひとつの海上国家の姿を描き出した。いまも中心地がどこだったかについては、パレンバン説が有力だが、議論が残っている。