人物

尚巴志

Shō Hashi
AD1372年 – AD1439年(享年67・推定)
琉球王国重要度 4

概要

佐敷の按司の子。小柄で「巴志」と呼ばれた。鉄の交易で力をつけ、1406年に中山王を倒して父を王に立て、1416年に北山(今帰仁)、1429年に南山を滅ぼして、三山を統一した。首里城を整え、那覇港を開き、明との朝貢貿易を独占した。第一尚氏は7代で終わり、1470年、クーデターで第二尚氏(尚円)に代わった。

所属

琉球王国

関わったできごと(1)

琉球王国の統一AD1429年 · 統一した

本文

尚巴志は、1372年、沖縄本島南部の佐敷で生まれた。父の思紹は、佐敷の小さな按司(地域の首長)だった。体が小さかったので「佐敷小按司」と呼ばれたと伝えられる。「巴志」が本名か呼び名かもはっきりしない。

14世紀の沖縄本島は、北の北山、中部の中山、南の南山という三つの勢力が並び立つ三山時代だった。三山はそれぞれ明の成立の後の明に使いを送り、朝貢していた。各地のグスク(城)に拠る按司たちが、勢力を争っていた。

巴志の若い頃について、17世紀以降に琉球王府が編んだ史書は次の話を伝える。日本の商人が持ってきた見事な刀を、巴志は鉄を手に入れるために買い、のちにその刀を欲しがった別の按司と鉄の塊を交換した。巴志はその鉄で農具を作って民に配り、人々の心をつかんだ、という。鉄の農具が力の源だった時代の記憶とみられるが、話そのものは後世の伝承である。

1406年、巴志は中山王の武寧を浦添のグスクに攻めて滅ぼし、父の思紹を中山王に立てた(年代には異説がある)。拠点はやがて浦添から首里へ移された。続いて北山に兵を向け、1416年、今帰仁城を攻め落とした。北山王の攀安知は武勇で知られ、城も堅かったが、家臣が寝返って城内に火を放った。攀安知は、城の守り神とされた霊石を「お前も役に立たなかった」と斬りつけて自害したと伝えられる。

1421年に思紹が死ぬと、巴志が中山王を継いだ。明からは冊封の使者が来て、正式に琉球国中山王と認められた。「尚」の姓は明の皇帝から与えられたと王府の史書は説くが、確かな根拠はない。

1429年、巴志は南山の他魯毎を滅ぼし、三山を一つにした(琉球王国の統一)。伝承では、他魯毎が巴志の持つ金の屏風を欲しがり、城下の大切な水源である嘉手志川の泉と交換してしまった。水を断たれた民の心は南山王から離れ、巴志は難なく南山を倒したという。これも勝った側の語る話で、そのまま事実とはいえない。

統一の後、巴志は首里城を王の城として整えた。中国から来た懐機を重く用い、首里城の外に池や庭園を造らせ、那覇の港を整えた。1427年、首里城の外苑の造営を記念して建てられた「安国山樹華木之記」の碑は、この時代を伝える数少ない同時代の記録である。明は民間の海外交易を禁じる海禁をとっていたため、朝貢の資格を持つ琉球の船は、中国の品を外へ運ぶ貴重な担い手になった。明への朝貢は、皇帝に貢ぎ物を献じ、それを上回る返礼の品を受け取る貿易でもあった。琉球は中国の陶磁器や絹を手に入れ、日本や朝鮮、東南アジアの港へ運んで売った。福建から移り住んだ人々の集落である久米村が、漢文の外交文書と航海の技術を支えた。小さな島の王国が、海の中継貿易で栄える仕組みがここで固まった(琉球王国)。

1439年、巴志は死んだ。数えで68歳とされる。墓と伝えられるものは、いま読谷村の伊良皆にある。のちの王朝交替のあと、墓が荒らされるのを恐れた人々がひそかに移したと伝えられる。

巴志の始めた王統は、第一尚氏と呼ばれる。7代、63年で終わった。6代の尚泰久は、琉球が「万国の架け橋」であると刻んだ鐘を首里城に掛けさせた王である。1469年に7代の尚徳が死ぬと、重臣たちが王子を退け、尚徳の下で貿易を担った金丸を王に立てた。金丸は尚円と名乗り、明には前の王の子として冊封を受けた。第二尚氏の始まりである。第二尚氏はその後400年続き、1609年の薩摩の琉球侵攻、1879年の琉球処分を経て幕を閉じる。三山を一つにした巴志は、その王国の土台を作った人である。

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