マンゴ・パークのニジェール川
概要
スコットランドの医者が、アフリカ協会の金で、ガンビアから一人で東へ。捕えられ、逃げ、飢えて、ニジェール川が東に流れるのを見た。「私が探していた川」。帰って本を書いた。1805年、40人で戻り、全員死んだ。川がどこへ流れるかは、25年後にランダー兄弟が確かめた。
場所
13.44°N -6.26°E · マリ
関わった人(1)
マンゴ・パークAD1771年9月11日–AD1806年 · 見た本文
18世紀の終わり、ヨーロッパ人はアフリカの海岸はよく知っていたが、内陸のことはほとんど知らなかった。なかでも謎だったのがニジェール川である。どこから出て、どちらへ流れ、どこで海に注ぐのか。西へ流れてセネガル川やガンビア川になるのか、東へ流れてナイル川につながるのか、内陸の沼に消えるのか。古代の地理書からアラブの旅行記まで、答えはまちまちだった。1788年、博物学者ジョゼフ・バンクスらがロンドンでアフリカ協会を作り、内陸に探検家を送り始めた。最初に送られた者たちは帰らなかった。
マンゴ・パーク(マンゴ・パーク)は1771年、スコットランドのセルカークの近くで農家の子として生まれ、エディンバラ大学で医学を学んだ。東インド会社の船の船医としてスマトラまで航海して植物を採集し、それがバンクスの目にとまった。1795年、24歳のパークはアフリカ協会の依頼を受けて、ガンビア川をさかのぼった交易地ピサニアに入った。イギリス人の医師ジョン・レイドリーの家に身を寄せ、熱病に苦しみながら、土地の言葉マンディンカ語を覚えた。

1795年12月2日、パークは東へ出発した。連れは通訳の元奴隷と少年の二人、馬が一頭とロバが二頭。持ち物は着替えとコンパスと傘、それに帽子くらいだった。道中の小さな王国を通るたびに、王たちに贈り物を求められ、荷物は日に日に減った。1796年3月、サハラの縁のルダマールで、ムーア人の首長アリに捕えられた。キリスト教徒の白人として見世物にされ、豚と並べられ、食べ物も水もろくに与えられないまま、4か月近く留め置かれた。7月の初め、馬とコンパスだけを持って逃げ出し、飢えと渇きに倒れかけながら南東へ進んだ。
1796年7月20日の朝、パークはバンバラの王国の都セグーの近くで、ついにニジェール川を見た。旅行記の一節は名高い。長く探し求めた雄大なニジェール川が、朝日に輝き、ウェストミンスターのテムズ川ほどの幅で、ゆっくりと東へ流れていた、とパークは書いた。川が東へ流れることを、ヨーロッパ人が初めて自分の目で確かめた瞬間だった。

セグーの王マンソンは、この素性の知れない白人に会おうとせず、川を渡ることも許さなかった。ただ、旅を続けるための5000個の子安貝を贈った。この夜、泊まる所の無いパークを家に入れて食事を与えたのは村の女たちで、彼女たちは糸を紡ぎながら、母も妻もいない哀れな白人のために即興の歌を歌ったという。パークはこの歌を旅行記に書き留めている。パークは川沿いにさらに下ってシラという町まで行ったが、雨季が始まり、金も体力も尽きて、引き返すことにした。
帰りの旅はさらに苦しかった。追いはぎに身ぐるみ剥がされ、高熱で動けなくなり、カマリアという町で奴隷商人カルファ・タウラの家に7か月世話になった。そして、カルファが海岸へ連れていく奴隷の隊列に加わって、ガンビアに戻った。1797年6月、ピサニアに帰り着いたパークは、とうに死んだと思われていた。アメリカの奴隷船で西インド諸島を回って、その年の暮れにロンドンに着いた。旅の途中で彼は、アフリカの奴隷の取引(大西洋奴隷貿易)を間近に見ていた。

1799年に出した『アフリカ内陸旅行記』はよく売れた。パークは見たことを飾らずに書き、自分の惨めさも、助けてくれた人々の親切も、そのまま記した。それが読者に信じられた理由でもある。故郷に戻ったパークは結婚し、ピーブルズの町で開業医になったが、田舎の医者の暮らしに飽き足らなかった。
1805年、イギリス政府の後押しで、パークは二度目の探検に出た。今度はニジェール川を下り、その終わりを突き止めるのが目的だった。連れていったのは、西アフリカの駐屯地から集めた兵士およそ30人と船大工たち。出発は遅れて雨季にかかり、マラリアと赤痢で隊員は次々に死んだ。ニジェール川に着いたとき、ヨーロッパ人は11人に減っていた。サンサンディングで二艘の丸木舟をつないで舟を造ったころには、パークを含めて5人しか残っていなかった。パークは本国への手紙に、ニジェールの終わりを見つけるか、その試みの中で死ぬか、どちらかの決意で東へ漕ぎ出すと書いた。

舟は1000キロ以上を下り、ティンブクトゥの近くを通り過ぎた。だが1806年ごろ、いまのナイジェリアのブッサの急流で、パークの一行は岸から攻撃を受け、舟を捨てて川に飛び込み、溺れたと伝えられる。経緯が分かったのは数年後、植民地の役人が送り出した使者が、一行の案内人だったアマディ・ファトゥマから話を聞き出したからである。パークの息子トマスは、1827年に父の消息を探しに西アフリカへ渡り、熱病で死んだ。
ニジェール川の行方を突き止めたのは、1830年、リチャードとジョンのランダー兄弟だった。二人はブッサから川を舟で下り、川が大きく南へ曲がって、ギニア湾のベニン湾に、いくつもの支流に分かれて注いでいることを確かめた。ニジェールは東へ流れ、やがて南へ向きを変える長い川だったのである。それから半世紀ほどのうちに、ヨーロッパの国々は内陸へ兵を進め、西アフリカを分け合っていく。セルカークの町には、いまもパークの記念像が立っている。