ルカ・パチョーリ
概要
ボルゴ・サンセポルクロ。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカに幾何を学び、フランシスコ会士になり、各地の大学で数学を教えた。1494年『スンマ』(算術、代数、そして複式簿記)。1497年からミラノで、レオナルド・ダ・ヴィンチと同居した。『神聖比例論』(黄金比。挿絵はレオナルド)。「会計の父」。
関わったできごと(1)
複式簿記の刊行AD1494年 · 書いた本文
ルカ・パチョーリは1447年頃、トスカーナの小さな町ボルゴ・サンセポルクロに生まれた。同じ町には、画家で数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカが住んでいた。ピエロは遠近法や正多面体についての論文を書いた人で、パチョーリは少年の頃、彼のもとで幾何学を学んだと考えられている。

若いパチョーリはヴェネツィアへ出て、裕福な商人の家に住み込み、息子たちの家庭教師を務めた。ヴェネツィアは地中海貿易の中心で、商人たちは帳簿をつけ、為替を組み、遠くの取引先と手紙で商売をしていた。パチョーリはその実務を間近に見ながら、数学の勉強を続けた。のちにローマで、建築家で人文学者のレオン・バッティスタ・アルベルティの家に身を寄せたこともある。1470年代にはフランシスコ会の修道士となり、ペルージャ、ナポリ、ローマ、ピサなど各地の大学で数学を教えた。
1494年、パチョーリはヴェネツィアで『算術、幾何、比および比例全書』、通称『スンマ』を出版した。600ページを超える大著で、当時の数学の知識、すなわち算術、代数、幾何、比例、商業の計算、両替などをまとめたものである。学者の言葉であるラテン語ではなく、商人にも読めるイタリア語で書かれ、印刷されたことで広く普及した。13世紀にレオナルド・フィボナッチがもたらしたインド・アラビア数字と計算法が、ここで商人の実用の数学としてまとめ上げられた。3次方程式の一般の解き方は無いとも書いたが、その解法は数十年後にイタリアの数学者たちによって見つけられた。

この本の中の「計算と記録の詳論」と題する章が、複式簿記を体系的に説明した最初の印刷物として知られる(複式簿記の刊行)。すべての取引を、借方と貸方の二つの面から記録し、両者がつねに等しくなるようにする。財産の目録を作り、日記帳に取引を書き、それを元帳の勘定に転記する。こうして、商人は自分の財産と損益を正確に知ることができる。複式簿記そのものは、パチョーリより前からイタリアの商人やメディチ銀行のような銀行で使われていた。パチョーリはそれを発明したのではなく、ヴェネツィアの商人のやり方を、誰でも学べる形に書き記したのである。
1496年、パチョーリはミラノの君主ルドヴィーコ・スフォルツァに招かれ、宮廷で数学を教えた。そこでレオナルド・ダ・ヴィンチと出会い、親しい友人になった。レオナルドはパチョーリから幾何学を学び、パチョーリの著作『神聖比例論』のために、60点ほどの多面体の図を描いた。骨組みだけの透明な多面体と、面を持つ多面体を描き分けた見事な図である。黄金比を「神聖な比」と呼んで論じたこの本は1509年に出版された。パチョーリはこの本の中で、レオナルドの『最後の晩餐』や、制作中の巨大な騎馬像にも触れている。

1499年、フランス軍がミラノを占領し、スフォルツァ家は追われた。パチョーリとレオナルドは一緒にミラノを離れ、フィレンツェなどへ移った。パチョーリはその後もピサやボローニャで教え、ユークリッドの『原論』のラテン語版を出し、数遊びや手品を集めた原稿まで残している。晩年は故郷に戻り、1517年6月19日、70歳前後で亡くなった。
パチョーリには、盗用だという非難もつきまとった。16世紀の画家で伝記作家のヴァザーリは、パチョーリがピエロ・デッラ・フランチェスカの研究を自分の名で出したと書いている。実際、彼の著作にはピエロの論文と重なる部分がある。他人の知識を集めて分かりやすく広めることと、新しいものを生み出すことの境目は、彼の仕事の評価を難しくしている。
ナポリのカポディモンテ美術館には、1495年頃に描かれたパチョーリの肖像画がある。修道服の彼が机に向かい、幾何の図を指し示している。机の上にはユークリッドの本とコンパスが置かれ、宙には水を半分入れたガラスの多面体が吊るされて、窓の外の景色を映している。今日、パチョーリは「会計の父」と呼ばれ、世界の会計士たちに記念されている。商人の帳簿を数学の言葉で書いた修道士の仕事は、500年後の会社の決算書にまでつながっている。