スワヒリ海岸の交易都市
概要
アフリカとアラビア・インド・中国が混ざり合った。スワヒリ語はこの交易のなかで生まれる。
場所
-20.17°N 34.73°E · モザンビーク
本文
アフリカの東の海岸は、北のソマリアから南のモザンビークまで、およそ3000キロにわたって続く。その沿岸と沖の島々には、10世紀ごろから、石やサンゴ石で建物を造る港町がいくつも生まれた。北のモガディシュ(モガディシュの隆盛)から、ラム、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ、そして南のソファラまで、数十の町が並んだ。これらの町に暮らした人々と、その文化をスワヒリと呼ぶ。スワヒリはアラビア語で「岸辺の人々」を意味する言葉に由来する。
町の建物は、海から切り出したサンゴ石を石灰で固めて造られた。有力な商人の家は、何層もの部屋を持ち、壁には中国やペルシアの皿をはめ込んで飾った。町の外には、土と木で造った家に暮らす人々が大勢住み、町の暮らしを支えていた。人々は漁をし、米やモロコシを作り、内陸の人々との間で品物をやり取りした。

この海の交易の時間割を決めたのは、季節風だった。冬には北東から風が吹き、アラビア半島やペルシア湾、インドの船がアフリカの岸へ下ってくる。夏には南西から風が吹き、船はそれに乗って帰っていく。風が変わるまでの数か月、船乗りや商人たちは港に滞在した。その間に商いをし、土地の人々と結婚し、家庭を持つ者もいた。
スワヒリ語は、この交易の中で育った言葉である。文法と基本の語彙はアフリカのバントゥー系の言葉で、そこにアラビア語から多くの言葉が入り、のちにはペルシア語、ヒンディー語、ポルトガル語、英語からも言葉を取り入れた。18世紀には、アラビア文字で書かれた長い詩が作られている。今では、東アフリカの広い地域で何千万もの人々が共通語として話している。
町々の支配者や有力な家は、イスラームを信じた。サンゴ石を切り出して造ったモスクや宮殿、墓が残っている。町の起こりについては、ペルシアのシーラーズから王子たちが船で渡ってきて町を開いた、という伝承が各地にある。かつては、スワヒリの町は外から来たアラブ人やペルシア人の植民地だと考えられたこともあった。しかし考古学の調査が進むと、町の多くは、もともとアフリカの人々の村が交易によって大きくなったものだと分かってきた。2023年に発表された中世の人骨の遺伝子の研究は、スワヒリの人々の祖先が、アフリカの人々と、西アジアやインドから来た人々との両方に由来し、とくに男性の側にペルシア系の血が多く入っていたことを示した。
積み出されたのは、象牙、金、犀の角、亀の甲、マングローブの材木、そして奴隷だった。南のソファラには、内陸のグレート・ジンバブエを通じて金が集まり、その金を押さえた南の港キルワは、14世紀に大いに栄えた(キルワとインド洋交易)。入ってきたのは、インドの綿布、ガラス玉、ペルシアや中国の陶磁器である。キルワの大モスクや宮殿の跡からは、中国の青磁が出ている。1331年ごろこの海岸を旅したイブン・バットゥータは(イブン・バットゥータの旅)、キルワを世界で最も美しく、よく整えられた町の一つだと書いた。15世紀の初めには、鄭和の南海遠征の船団もマリンディやモガディシュに寄っている。

港町はそれぞれ独立していて、一つの国にまとまることはなかった。王や有力な商人の家が町を治め、互いに競い合い、時には戦った。同じ言葉と信仰と文化を持ちながら、商売の上では張り合う相手どうしだった。
1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団がこの海岸に現れた。モンバサでは冷たく迎えられたが、その対抗相手のマリンディは歓迎し、インドへの水先案内人を出した(マリンディの水先案内)。町どうしの対立が、外から来た者に足がかりを与えたのである。数年後、ポルトガルは艦隊を送ってキルワやモンバサを攻め、交易を力で支配しようとした。キルワはこれをきっかけに衰えた。17世紀の末には、オマーンがポルトガル人を追い出し、19世紀にはザンジバルの丁子と奴隷市場を中心とする新しい時代が始まる。キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡、ザンジバルのストーン・タウン、ケニアのラムの旧市街は、それぞれ世界遺産に登録されている。