ヴィジャヤの陥落
概要
大越の黎聖宗が20万で攻め、チャンパの都を落とした。6万が殺され、3万が連れ去られたと伝わる。チャンパは南の一角に縮み、以後戻らない。
場所
13.90°N 109.10°E · ベトナム・ビンディン省
本文
今のベトナムの中部の海岸には、2世紀ごろからチャンパと呼ばれる国々があった。住んでいたのはマレー系の言葉を話すチャム人で、インドの文化を取り入れ、シヴァを祀るれんがの塔を各地に建てた(チャンパとミーソン)。海の交易で栄え、香木や象牙を中国やインドへ送り出していた。北の大越とは、言葉も宗教も文字も違う国だった。
10世紀に北部ベトナムが中国から自立して大越が生まれると、二つの国の境目は戦いの場になった。982年、大越の軍はチャンパの都インドラプラ(今のダナンの近く)を襲って略奪した。チャンパは都を南のヴィジャヤ(今のビンディン省、クイニョンの近く)へ移した。11世紀には大越の李朝が北部の三つの州を割譲させ、14世紀の初めには陳朝の王女がチャンパ王に嫁いだ見返りに、さらに二つの州が大越に渡った。こうしてチャンパの北の境は、少しずつ南へ押し下げられていった。
チャンパが一方的に押されていたわけではない。14世紀の後半、チャンパの王チェ・ボン・ガは逆に北へ攻め上がり、大越の都の昇竜(今のハノイ)を何度も襲って焼いた。大越の歴史書は、この王を最も手ごわい敵として記している。だが王が1390年に戦死すると、チャンパの勢いは再び衰えた。
15世紀に入って明の支配を退けた大越は、黎朝(黎朝の大越)のもとで国の仕組みを固め、人口も増えていた。北には大国の明がいて広がる余地がない。南の平野は、増える人々にとって魅力のある土地だった。1446年には大越の軍が一度ヴィジャヤを占領している。
1470年、チャンパの王が大越の国境の地を攻めたことをきっかけに、大越の黎聖宗は自ら大軍を率いて南へ向かった。大越の記録によれば、陸と海から送り出した兵は20万を超えたという。数には誇張が含まれている可能性があるが、国を挙げての遠征だったことは確かである。大越軍は国境の要地を次々と落とし、1471年の春、都ヴィジャヤを囲み、攻め落とした。
大越側の記録は、6万が殺され、王とその一族を含む3万あまりが捕虜として北へ連れ去られたと書く。この数字も大越側のものであり、確かめる手立ては無いが、都の住民と兵がほとんど失われるほどの打撃だったことは疑いない。捕らえられた王は北へ送られる途中で病死した。
黎聖宗はチャンパを一つの国として残さなかった。ヴィジャヤを含む北半分を大越の領土に組み入れ、新しい地方の役所を置いた。残る南の地には、チャンパの王族を王として三つの小さな国に分けて立て、大越に従わせた。分割して互いに力を持たせないようにする、征服した土地を治める古い手法である。
これ以後、チャンパは南のパーンドゥランガ(今のファンラン・タップチャム)とその周辺に縮み、二度と北へ戻ることはなかった。大越の人々は南へ移り住み、田を開き、村を作った。16世紀からは、南部を治めた阮氏の勢力がさらに南へ進み、チャンパの残りの土地を少しずつ取り込んでいく。1832年、阮朝(阮朝の成立)の明命帝が最後に残ったチャンパの領域を併合し、千年以上続いた国は地図から消えた。
ヴィジャヤの陥落は、ベトナムの歴史で「南進」と呼ばれる長い動きの大きな節目とされる。北の紅河のデルタに生まれた国が、数百年かけて海岸沿いに南へ広がり、最後はメコン・デルタまで達した。今のベトナムの細長い国土の形は、この動きの結果である。チャンパの側にも、外へ伝わって残ったものがある。日照りに強く早く実るチャンパの稲は、11世紀に宋が取り寄せて長江の下流に広め(占城稲の導入)、中国の米作りを変えた。
チャム人は今もベトナムの中南部とカンボジアに暮らしている。多くはイスラームを信仰し、一部はヒンドゥーの伝統を受け継いでいる。ベトナム中南部の海岸沿いの丘には、ポー・ナガルやポー・クロン・ガライなど、れんが造りのチャムの塔が残り、今もチャム人の祭りが行われている。ヴィジャヤの跡に近いビンディン省にも塔が点在し、かつてここに都があったことを伝えている。