人物

クロイソス

Croesus
BC595年頃 – BC546年頃(享年49・推定)
リュディア重要度 3

概要

金銀の鋳造貨幣を最初に整えた王とされ、その富は「クロイソスのように富める」という言い方で残った。キュロス2世に敗れて国を失う。

関わったできごと(1)

リュディアの鋳造貨幣BC7世紀後半 · 整えた

本文

クロイソスは、小アジア(いまのトルコ西部)のリュディア王国の最後の王である。生まれたのは紀元前595年ごろとされる。リュディアは、都サルディスを中心に、エーゲ海の岸からハリュス川(いまのクズルウルマク川)までの小アジアの西半分を支配した国で、その王家は、前7世紀の初めに先の王家から位を奪ったギュゲスに始まる(ギュゲスのリュディア)。

ギュゲスのリュディアに関わる図版:Der Ring des Gyges (Ferrara 16 Jh)
ギュゲスのリュディアWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

父のアリュアッテスは、東のメディア王国と長く争った王だった。前585年、両軍が戦っている最中に日食が起こり、昼が夜に変わったのを見て、両国は戦いをやめて和を結んだ、とヘロドトスは伝える。ギリシアの哲学者タレスがこの日食を予言していたという話も、同じヘロドトスが書いている(タレスの日食予言)。

前560年ごろ、クロイソスは父の後を継いだ。異母兄弟との間で王位をめぐる争いがあったとも伝えられる。即位すると、エーゲ海の岸に並ぶイオニアのギリシア人の都市を次々に攻め、貢ぎ物を納めさせた。ただ、支配は穏やかで、ギリシアの神々を敬い、ギリシアの文化を好んだ。エフェソスのアルテミス神殿の再建には多くの柱を寄進しており、その柱の台に刻まれた、クロイソスが奉納したという意味の銘文の断片が、いまも大英博物館に残っている。

Claude Vignon - Parable of the Unforgiving Servant
Wikimedia Commons Claude Vignon · Public domain

リュディアの富の源は、都の近くを流れるパクトロス川の砂金だった。この川の砂金は、金と銀が自然に混じり合った合金(エレクトロン)である。リュディアでは前7世紀のうちに、このエレクトロンの粒に刻印を押して、重さと価値を保証した貨幣が生まれていた(リュディアの鋳造貨幣)。世界で最も早い鋳造貨幣の一つとされる。クロイソスの時代には、合金を精錬して金と銀に分け、純金の貨幣と純銀の貨幣を別々に造る仕組みが整えられたとされる。獅子と牡牛が向き合う図柄の金貨と銀貨が、それにあたると考えられてきた。ただ、この貨幣がクロイソスの治世に始まったのか、ペルシアの支配下に入ってから造られたものかについては、近年は慎重な見方もある。

いずれにしても、クロイソスの富は伝説になった。「クロイソスのように富める」という言い回しは、ギリシア語からラテン語を経て、いまも英語などに残っている。

クロイソスの前に出るアイソーポス
クロイソスの前に出るアイソーポスWikimedia Commons Georges Rochegrosse · Public domain

クロイソスにまつわる話の多くは、前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』に由来する。中でも有名なのが、アテナイの賢人ソロンとの対話である。サルディスを訪れたソロンに、クロイソスは宝物庫を見せたうえで、世界で最も幸福な人間は誰か、と尋ねた。自分の名が挙がると思っていたが、ソロンは、アテナイの名もない市民の名を挙げた。立派な子と孫に恵まれ、国のために戦って名誉の死を遂げた人である。怒るクロイソスに、ソロンは、人間の運命は変わりやすい、生きているうちは誰も幸福と呼ぶことはできない、その人の最期を見届けるまでは、と答えたという。

この対話は、そのまま事実とは考えにくい。ソロンが改革を行ったのは前594年ごろで、クロイソスが王位についたのは30年以上後になる。年代が合わず、人間の運命の移ろいやすさを語るための、教訓の物語として作られたものとみられている。

ソロスに自らの富を見せつけるクロイソス(フランス・フランケン2世・17世紀)
ソロスに自らの富を見せつけるクロイソス(フランス・フランケン2世・17世紀)Wikimedia Commons Frans Francken the Younger · Public domain

やがて東の情勢が変わった。前550年ごろ、ペルシアのキュロス2世が、リュディアと縁戚関係にあったメディア王国を倒した。勢いを増すペルシアを前に、クロイソスは先手を打とうと考えた。ヘロドトスによれば、彼はまず、どの神託が正しいかを試した。ギリシアや各地の神託所に使者を送り、出発から100日目に、いま王が何をしているかを問わせた。その日クロイソスは、亀と子羊を青銅の釜で一緒に煮るという、誰も思いつかないことをしていた。それを言い当てたのが、デルフォイのアポロンの神託だった。クロイソスはデルフォイに莫大な黄金を奉納したうえで、ペルシアと戦うべきかを尋ねた。答えは、もしペルシアに兵を向ければ、大きな帝国を滅ぼすだろう、というものだった。

クロイソスはこれを、ペルシアが滅びるという意味に受け取った。スパルタやエジプト、バビロンと手を結び、ハリュス川を越えてペルシアの側に攻め込んだ。前547年ごろ、両軍はカッパドキアで戦ったが、勝敗はつかなかった。冬が近づき、クロイソスは兵をサルディスに引き揚げて解散し、春に同盟国の援軍を待って戦いを再開するつもりだった。だがキュロスは冬を待たずに追ってきた。サルディスの前の平原の戦いで、キュロスは荷を運ぶラクダを前に立て、その見慣れない姿と匂いでリュディアの騎兵の馬をおびえさせた、とヘロドトスは書く。サルディスは包囲されて、まもなく落ちた。滅びた大きな帝国は、クロイソス自身の国だった。

クロイソス王の銀貨。表面にライオンと雄牛のプロトメー(英語版)が描かれている。
クロイソス王の銀貨。表面にライオンと雄牛のプロトメー(英語版)が描かれている。Wikimedia Commons Jastrow · CC BY 2.5

その後のクロイソスの運命は、はっきりしない。ヘロドトスは、捕らえられたクロイソスが火あぶりにされかけたとき、ソロンの言葉を思い出し、その名を三度叫んだ、と書く。わけを聞いたキュロスは、人の運命の移ろいを思って火を消させようとしたが、火の勢いは強く、クロイソスがアポロンに祈ると、晴れた空から雨が降って火を消した。以後クロイソスはキュロスの相談役として仕えた、という。一方、ギリシアの詩人の作品には、彼が自ら火に身を投じ、アポロンに救われて遠い北の国へ運ばれたという別の話もある。バビロニアの年代記の一節を、キュロスがリュディアの王を殺した記録と読む説もかつてあったが、その読み方はいまでは疑わしいとされている。実際には、王はサルディスの陥落とともに死んだのかもしれない。

リュディアの陥落で、小アジアのギリシア人の都市はペルシアの支配下に入った。それが半世紀後、イオニアの反乱を経て、ギリシアとペルシアの大きな戦争へとつながっていく。富の頂点から転げ落ちた王の物語は、ギリシア人にとって、人間の幸福のもろさを語る格好の手本になった。

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