義浄のシュリーヴィジャヤ滞在
概要
唐の僧が海路でインドへ向かい、途中の港でサンスクリットを学んだ。海峡の国に千人の僧がいた、とその記録が伝える。
場所
-2.98°N 104.78°E · インドネシア(シュリーヴィジャヤの中心)
関わった人(1)
義浄AD635年–AD713年 · 滞在した本文
義浄は635年、唐の時代の中国北部に生まれ、幼くして寺に入り、14歳で出家した。若いころから、インドへ経典を求めて旅をした先人たちにあこがれていた。陸路と海路で天竺を往復した東晋の法顕、そして義浄が10歳のころに長い旅から帰国し、都の長安で大がかりな翻訳を進めていた玄奘である(法顕の求法の旅、玄奘の西域行)。とくに知りたかったのは、僧が日々守るべき戒律の、インドでの本当の姿だった。中国に伝わった戒律の書は不完全で、解釈も分かれていた。
玄奘は中央アジアの砂漠と高い山を越える陸の道を行った。義浄が選んだのは海の道だった。7世紀の後半、広州の港にはペルシアやインドの商船が季節風に乗って出入りしていた。671年の冬、36歳の義浄は、一緒に行くはずだった仲間たちが次々に離れていく中で、弟子の善行一人だけを連れて、ペルシア人の船主の船に乗りこんだ。

北東の季節風を受けて南へ進み、20日に足りない日数で、スマトラ島の港に着いた。そこが、海峡を押さえる新興の国シュリーヴィジャヤ(シュリーヴィジャヤの海上交易)の都だった。いまのパレンバンのあたりとみられている。義浄はここに6か月とどまり、インドへ行く前にサンスクリット語の文法を学んだ。
義浄の記録によれば、シュリーヴィジャヤの都の中には千人を超える僧がいて、学問に励み、托鉢をして暮らしていた。その学ぶところも修行の作法も、インドと少しも変わらない。中国の僧がインドへ行って経典を学ぶなら、まずここに一、二年とどまって作法と言葉を身につけるのがよい、とまで勧めている。シュリーヴィジャヤの王は義浄を厚くもてなし、王の船でマラッカ海峡を北へ送り届けた。

673年、義浄はベンガル湾の奥の港タームラリプティに着き、そこからガンジス川の流域の仏跡を巡った。そして当時のインドで最大の学問の中心、ナーランダー僧院(ナーランダー僧院の創建)に入り、10年ほどのあいだ、戒律と論書と言葉を学んだ。数千人の学僧が住み、日々の暮らしは細かな規則で律せられていた。義浄はその一つ一つを書き留めた。
685年ごろ、義浄はサンスクリット語の経典およそ400部を携えて帰途についた。ふたたびシュリーヴィジャヤに寄り、ここを仕事の場と定めた。持ち帰った経典の翻訳と、旅の記録の執筆にとりかかったのである。689年には、紙と墨と筆を求める手紙を託そうと港に出たところ、乗っていた船がそのまま風を受けて出帆してしまい、思いがけず広州に帰りついた、という出来事も本人が書いている。義浄はその年のうちに助手を連れて南へ戻った。

691年、義浄は書き上げた二つの書物を、中国へ帰る僧に託して都へ送った。『南海寄帰内法伝』は、インドと南海の僧院で行われている戒律と暮らしの作法を、食事、衣服、礼拝、病気の手当て、葬送まで詳しく記したもので、中国の仏教のやり方への厳しい批判も含んでいる。『大唐西域求法高僧伝』は、唐の初めにインドを目指した僧たち60人ほどの伝記を集めたものだ。その中には新羅の僧もいる。多くは途中の病や難破で亡くなり、帰りつけた者はわずかだった。義浄は、名前も残らず消えていく仲間たちの消息を書き留めようとした。
695年、義浄は25年ぶりに洛陽に帰った。則天武后(則天武后)は自ら都の門の外まで出迎えたと伝えられる。その後、713年に数えで79歳で亡くなるまで、50部を超える経典を訳し、とりわけ戒律の書の翻訳に力を注いだ。
義浄の記録は、仏教の歴史の史料であると同時に、東南アジアの歴史にとってかけがえのない史料になっている。シュリーヴィジャヤは、自分たちの手で書いた歴史の書物をほとんど残さなかった。スマトラで見つかった古いマレー語の碑文には、682年から683年にかけて王が大軍を率いて遠征し、国を築いたことが刻まれていて、義浄がこの港に出入りしていた時期と重なる。義浄の筆が伝える、千人の僧と学問の都の姿は、7世紀のマラッカ海峡が、中国とインドを結ぶ海の道の要として栄えはじめた瞬間を映している。シュリーヴィジャヤはその後300年以上にわたって海峡を押さえ、11世紀には南インドのチョーラ朝の遠征を受ける(チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征)。