ビルカの交易
概要
メーラレン湖の島。8世紀から10世紀、スウェーデンのヴァイキングの交易の町。東からアラブの銀貨、絹、ガラス。西から毛皮と奴隷。3000の墓。829年、宣教師アンスガルが来た。10世紀末に捨てられ、街は残らなかった。1993年、世界遺産。戦士の装備を持つ墓の主が女性だったことが2017年にDNAで確かめられた(戦士だったかは議論が続く)。
場所
59.34°N 17.54°E · スウェーデン
本文
ストックホルムの西およそ30キロ、大小の島が浮かぶメーラレン湖に、ビョルケ島という小さな島がある。「白樺の島」という意味である。8世紀の半ばから10世紀の後半まで、この島にはスカンディナヴィアで最も早い町の一つ、ビルカがあった。メーラレン湖はバルト海とつながり、船で外の世界へ出られる。湖のまわりには豊かな農村が広がり、北の森からは毛皮が届く。ビルカは、その間で品を受け渡す交易の港として栄えた。
ヴァイキングといえば、793年のヴァイキングの襲来に始まるイングランドやフランクの沿岸への襲撃がよく知られる。だが、スウェーデンのヴァイキングが主に目を向けたのは東だった。彼らはバルト海を渡り、ロシアの川をさかのぼり、船を引いて陸を越え、ヴォルガ川を下ってカスピ海へ、ドニエプル川を下って黒海とコンスタンティノープルへと向かった。東の人々は彼らをルーシと呼び、そこからやがてロシアの国が生まれる(ルーシの成立)。ビルカは、この東の道の西の端に位置していた。

ビルカの墓からは、遠い土地の品々が見つかっている。最も多いのは、アッバース朝などイスラームの国々(カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース))の銀貨、ディルハムである。スウェーデン全体では、数万枚のディルハムが土の中から出ている。中央アジアの鉱山で掘られ、バグダードなどで打たれた銀が、ヴォルガの交易を通じて北へ流れてきたのである。ほかにも、ビザンツや中国の絹、ラインの地方のガラスの器や剣、イングランドやフランクの硬貨があった。一人の女性の墓からは、「アッラーのために」とアラビア文字で刻まれた石をはめた指輪も見つかっている。北から運び出されたのは、毛皮、蜜蝋、鉄、琥珀、そして奴隷だった。襲撃で捕らえた人々は、東の市場で売られた。
ビルカについては、文字の記録も残っている。829年ごろ、フランク王国の皇帝ルイ敬虔王は、修道士アンスガルを北の地へ送った。アンスガルの弟子が書いた伝記によれば、アンスガルはビルカに着くと王ビョルンに迎えられ、布教を許された。町の有力者ヘリゲルが自分の土地に教会を建てたという。アンスガルはのちにハンブルクの大司教となり、850年代にもう一度ビルカを訪れ、このときは人々の集会の評議を経て、布教が改めて認められたという。だが、キリスト教はこの時は根付かず、スウェーデンが改宗するのは、さらに2世紀ほど後のことになる。

島には、町の跡が「黒い土」と呼ばれる黒ずんだ地層として残っている。人々の暮らしの灰や生ごみが積もってできた土で、そこに家々と工房と船着き場が並んでいた。町の背後の丘には砦があり、町の周りには土の壁が巡らされていた。墓はおよそ3000あり、そのうち1100ほどが、19世紀の後半、考古学者ヤルマル・ストルペによって掘られた。
その中に、町の砦のそばの、とりわけ立派な墓があった。1878年に掘られたその墓には、剣、斧、槍、矢、盾、二頭の馬、そして戦の駆け引きを遊ぶ盤の駒が納められていた。長く、身分の高い男の戦士の墓と考えられてきた。2017年、骨のDNAを調べた研究者たちは、葬られていたのが女性だったと発表した。女の戦士の墓かもしれない、という発表は大きな話題になった。武器はただ女性の身分を示すために納められただけで、本人が戦ったとは限らない、別の人の骨が混じっているのではないか、という反論も出た。研究者たちは2019年に改めて調べ、骨は一人の女性のものだと示したが、その女性が戦士だったかどうかについては、いまも議論が続いている。北欧の伝説には盾を持って戦う乙女たちが登場するが、考古学がそれを確かめたと言えるかどうかは、慎重に見る必要がある。

ビルカは、10世紀の後半、970年代ごろに捨てられた。理由ははっきりしない。氷河の重みから解かれた北欧の大地は少しずつ隆起しており、湖の水位が下がって船が入りにくくなったという説や、東からのイスラームの銀の流れが細ったことが響いたという説がある。町の役割は、近くのシグトゥーナに受け継がれた。ビルカの跡は、隣の島の王の館の跡とともに、1993年に世界遺産に登録された。いまは牧草地が広がり、夏には船で訪れる人々が博物館を巡る。西で修道院を襲っていたヴァイキングと同じ時代に、東では銀を量り、絹を売り買いする人々がいた。ビルカは、その姿を伝えている。