ロレンツォ・デ・メディチ
概要
銀行家として芸術家を支え、ルネサンスの盛期を作った。ミケランジェロを見出す。
関わったできごと(2)
メディチ銀行AD1397年 · 傾けたイタリア・ルネサンスの盛期1450年 · 支援本文
1449年1月1日、フィレンツェの銀行家の家に生まれた。曽祖父のジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチが大きくしたメディチ銀行は、ヨーロッパ各地に支店を持ち、教皇庁の資金も扱っていた。祖父のコジモは、その富で市の政治を裏から動かし、「国父」と呼ばれた。父のピエロは痛風に苦しみ、「痛風病みのピエロ」と呼ばれた。母ルクレツィア・トルナブオーニは宗教詩を書く教養人だった。

ロレンツォは幼いころから、当時一流の人文学者たちにギリシア語とラテン語、哲学を学んだ。プラトンを翻訳したマルシリオ・フィチーノは、生涯の師であり友人になった。馬上槍試合で名を上げ、詩を書き、狩りと歌を好んだ。顔立ちは美しいとは言えず、鼻がつぶれて声も甲高かったと同時代の人は書くが、人を惹きつける力があった。1469年、ローマの名門オルシーニ家のクラリーチェと結婚する。同じ年に父が死に、20歳で一族の当主となった。
政治の役職には就いていない。フィレンツェは共和国で、市民の代表が交代で政府を担う建前になっていた。ロレンツォは共和国の市民として、選挙と人事を裏から操り、非公式に実権を握った。「豪華王(イル・マニーフィコ)」と呼ばれる。もとは目上の人への敬称で、それが彼の呼び名として定着した。

1478年4月26日、復活祭の後の日曜日、大聖堂のミサのさなかに、ライバルの銀行家パッツィ家の一味が兄弟を襲った。弟のジュリアーノは刺し殺され、ロレンツォは首を斬りつけられながら聖具室に逃げ込んで助かった。陰謀の背後には、教皇シクストゥス4世とその甥たちがいた。市民はメディチの側に立ち、ピサ大司教を含む首謀者たちは政庁の窓から吊るされた。教皇はロレンツォを破門し、ナポリ王と組んでフィレンツェに戦争を仕掛けた。
戦いが不利になると、ロレンツォは1479年の暮れ、自らナポリへ船で渡り、敵の王フェランテのもとに乗り込んだ。捕らえられる危険を冒して3か月近く滞在し、和平をまとめて帰ってきた。この一件で、彼の権威は揺るがないものになる。以後、ミラノ、ナポリ、教皇領、ヴェネツィアとのあいだで力の釣り合いを保つことに心を砕き、のちの史家グイッチャルディーニは、彼をイタリアの天秤の針にたとえた。

芸術家を支援した。ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ヴェロッキオが彼の周りで仕事をした。若いレオナルド・ダ・ヴィンチを、ミラノ公のもとへ送り出したのもロレンツォだとされる。そして、サン・マルコの庭に古代の彫刻を集めて開いた学びの場にいた10代のミケランジェロを見出し、自邸に住まわせて、家族と同じ食卓につかせている。フィチーノのプラトン研究の集まり、詩人ポリツィアーノ、哲学者ピコ・デッラ・ミランドラらとの交わりは、フィレンツェを学問の都にした。
ロレンツォ自身も詩人だった。ラテン語ではなく、市民の話すトスカーナの言葉で詩を書いた。謝肉祭の歌の一節、青春はなんと美しいことか、だが過ぎ去ってゆく、楽しみたい者は楽しめ、明日のことは分からない、は今もよく知られている。

その一方で、銀行の経営は彼の代で傾いた。ロンドンやブリュージュの支店は、王侯への貸し付けが焦げついて閉じられた。支店長の管理を怠り、公金と私財を混ぜた。娘の持参金を積み立てる市の基金から金を流用したと非難されてもいる。富は芸術と政治に注がれ、商いからは離れていった。
一族の将来のためには手を尽くした。次男ジョヴァンニを13歳で枢機卿にさせ、のちの教皇レオ10世への道を開いた。晩年、ドミニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェで説教を始め、贅沢と権力者の腐敗を激しく責めた。

1492年4月8日、カレッジの別荘で、43歳で死んだ。死の床をサヴォナローラが訪れたとされるが、そこで何が語られたかは、伝える人によって話が違う。死後まもなく、メディチ家は一度追放される。1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに攻め込むと、跡を継いだ長男ピエロは無条件で城を明け渡し、怒った市民に追い出された。
同じ年、コロンブスが大西洋を渡っている。ロレンツォの死は、イタリアが外国の軍に踏み荒らされる時代の始まりと重なった。金融で稼いだ富が芸術に流れ、その芸術がいまフィレンツェの主な収入源になっている。