できごと

張保皐の清海鎮

Jang Bogo and Cheonghae Garrison
AD828年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐ツングース系の人びとウイグル可汗国吐蕃マレー系の人びとヒンドゥーの諸国渤海ラージプートの諸氏族と小国プラティーハーラ朝パーラ朝南詔南詔と大理日本真臘クメール帝国アイヌヒンドゥーと仏教の小国群新羅ピュー(驃)の諸都市モンの諸国チャンパドヴァーラヴァティーAD828年莞島(清海鎮)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD828年の版図を描いています(24勢力)。

概要

唐で軍人になった新羅人が帰国し、海賊を討つ拠点を莞島に置いた。唐・新羅・日本を結ぶ海の交易を握り、円仁の旅も助けている。

場所

莞島(清海鎮)
34.31°N 126.75°E · 大韓民国・全羅南道

関わった人(1)

張保皐?–AD846年 · 設置

本文

9世紀の東アジアの海は、物と人が盛んに行き交う一方で、危うい場所でもあった。唐の沿岸には、山東半島から長江の河口にかけて新羅人の村がいくつもあり、船乗りや商人、炭焼きや塩作りの人々が住んでいた。新羅では王位をめぐる争いと飢饉が続いて地方の統制が緩み、海賊が沿岸の村を襲って人をさらい、唐へ連れて行って奴隷として売った。唐の朝廷もこれを問題にし、新羅人の売買を禁じる命令を出している。

張保皐は新羅の海辺の、身分の低い家に生まれた。新羅には新羅の骨品制と呼ばれる厳しい身分の仕組みがあり、生まれによって就ける官職の上限が決まっていた。張保皐のような生まれの者が国で出世する道は、ほとんど無い。若いころ友人の鄭年とともに唐へ渡り、徐州の軍に入って武官になった。弓と槍に優れていたと伝わる。唐の詩人杜牧は、のちにこの二人の友情と武勇を伝記に書いており、それが『新唐書』にも取り入れられている。

張保皐(チャン・ボゴ)級潜水艦
張保皐(チャン・ボゴ)級潜水艦Wikimedia Commons PH1 David A. Levy, US Navy · Public domain

唐にいるあいだに、張保皐は、新羅の人々がさらわれて売られていくのを見た。828年ごろ新羅に戻ると、興徳王に願い出た。唐のどこへ行っても新羅人が奴隷にされている、海の要所に拠点を置いて、海賊が人をさらって西へ運ぶのを止めさせてほしい、と。王はこれを許し、兵1万を与えたとされる。拠点が置かれたのは、朝鮮半島の南西の端、多くの島が入り組む莞島で、清海鎮と名づけられた。黄海を越えて唐へ向かう船も、対馬海峡を越えて日本へ向かう船も、ここを通る。

清海鎮ができてからは、新羅人がさらわれることは無くなったと『三国史記』は書く。張保皐の働きは、それにとどまらなかった。海の安全を握った拠点は、そのまま交易の中心になった。唐の山東半島の赤山には張保皐が建てた寺があり、そこを拠点に新羅人の商人や船乗りが集まった。張保皐は唐へ交易の使節を送り、日本の大宰府にも使いと品物を送った。唐の陶磁器や絹、日本の産物が、張保皐の船で運ばれた。日本の朝廷は、他国の臣下が勝手に送ってきた使いとは国の交わりはしないとして公式の関係は断ったが、品物の取引は認めている。

838年、唐に渡った円仁は、翌年、帰りの船を降りて赤山の寺に身を寄せた(円仁の入唐求法)。円仁は張保皐に宛てて、まだお目にかかったことはないが、ご高名はかねて伺っている、という丁寧な手紙を書き、それを日記に写している。円仁が唐を旅し、最後に新羅人の船で帰国できたのも、張保皐が作った人と船の網があったからだった。

張保皐の力は、やがて新羅の政治を動かすまでになる。王位をめぐる争いに敗れて清海鎮に逃げてきた王族の金祐徴を助け、839年、兵を出して都の王を倒させた。金祐徴は神武王として即位したが、数か月で亡くなり、その子の文聖王が跡を継いだ。張保皐はこの功で高い位を与えられた。

ところが、張保皐が娘を文聖王の妃にしようとすると、都の貴族たちは、海の島の者の娘を王妃にはできないと強く反対し、王も取りやめた。張保皐はこれを恨んだと伝えられ、朝廷は彼が反乱を起こすことを恐れた。やがて、張保皐の配下に身を寄せた閻長という武人が、酒の席で彼を刺し殺した。その年は、『三国史記』が846年とする一方、日本の記録『続日本後紀』の記事から841年ごろとみる説も強く、定まっていない。

清海鎮は851年に廃され、住民は内陸へ移された。新羅の海の交易をまとめていた力が消えると、海は再び乱れ、やがて新羅の海賊が日本の九州の沿岸を襲うようにもなる。新羅そのものも、地方の豪族が力を伸ばして衰えに向かった(新羅)。張保皐は、身分の壁を越えて海に自分の居場所を作った人物として、いま韓国では「海上王」と呼ばれ、ドラマにもなっている。莞島には清海鎮の跡が残り、木の柵の跡が見つかっている。

出典(1)

金富軾 『三国史記』新羅本紀 興徳王3年

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