オヨ王国の騎兵
概要
森林地帯では珍しく騎兵を主力にし、北から馬を買い続けた。王の専横を貴族会議が抑える仕組みも持っていた。
場所
8.90°N 3.93°E · ナイジェリア・オヨ州(旧都の推定地)
本文
西アフリカの南部は、海岸から内陸へ向かって、深い熱帯雨林、森と草原が入り混じる帯、そして乾いたサバンナと、帯状に景色が移り変わる。森の中では馬が育たない。ツェツェバエが運ぶ病気(眠り病の一種)に馬がかかり、長くは生きられないからだ。木々が密に立つ中では、騎馬の突撃もできない。だから海に近い森の国々は、歩兵で戦うのが普通だった。
その中で、騎兵を主力にした国があった。ヨルバの人々の国、オヨである。都のオヨ・イレ(旧オヨ)は、いまのナイジェリア南西部の北の端、森が切れてサバンナが始まるあたりにあった。ツェツェバエの少ない乾いた土地で、馬を飼うことができた。

ただ、馬を殖やすのは難しかった。病気や気候のために、馬は長く生き延びず、数を保つには買い足し続けるしかない。オヨは北のヌペやハウサの国々(ハウサ諸都市とカノ)から馬を買った。代わりに布や塩、のちには奴隷を北へ送った。馬は高価で、騎兵を持つことは富と力の証でもあった。
オヨが大きくなったのは17世紀から18世紀にかけてである。16世紀には北のヌペに都を追われ、一時は亡命を強いられた時期もあったが、都を取り戻してから力をつけ、騎兵で周りの国々を従えていった。ただ、森の奥では騎兵は役に立たない。そこでオヨは乾季を選び、短い遠征を繰り返した。雨季の泥と病を避け、馬が動けるうちに打って帰る。
最も重い相手になったのは、西の海寄りにあったダホメだった。オヨの騎兵は1720年代から何度もダホメに攻め込み、都を焼いた。ダホメの王はそのたびに森へ逃れたが、ついに屈して、1740年代には毎年の貢ぎ物を約束した。貢納はその後80年近く続く。女性の兵士で知られるダホメの軍(ダホメの女性部隊)も、オヨの騎兵の前には屈服を余儀なくされた。

こうしてオヨは、内陸から海岸への回廊を握った。その時代、ベニン湾の海岸はヨーロッパ人から「奴隷海岸」と呼ばれ、大西洋の向こうへ運ばれる人々が大量に積み出されていた(ラゴスとベニン湾の交易)。オヨはその道を押さえ、戦争や襲撃で捕らえた人々を海岸の商人に売り、代わりに布や銃、子安貝の貝貨を得た。オヨは奴隷貿易の、供給する側にいた。
政治の仕組みにも特徴がある。王はアラフィンと呼ばれ、神聖な存在とされて、人前にはめったに姿を見せなかった。だが、その力は無制限ではなかった。都の有力な家の長たちからなる七人の評議会、オヨ・メシが王を選び、王を見張った。王が専横になったり、国を誤らせたりしたとき、評議会は王に空の器(オウムの卵を入れたものとも伝わる)を送った。それは退位を、つまり死を求める合図で、受け取った王は自ら命を絶つのが慣わしだった。さらに王の宗教的な補佐役や、評議会と王の間を取り持つ秘密結社もあり、権力は何重にも抑え合っていた。

ただし、この均衡はつねに保たれていたわけではない。18世紀の半ば、評議会の長だったガハは、この仕組みを使って何人もの王を次々に自死に追い込み、20年にわたって実権を握った。1774年、アラフィンのアビオドゥンがガハを倒し、オヨはしばらく安定を取り戻す。
その均衡が、19世紀の初めに崩れた。アビオドゥンの死後、王と有力者の対立が再燃し、地方の将軍たちが自立していった。1817年ごろ、北部の要地イロリンを預かっていた将軍アフォンジャが反乱を起こし、その地で勢力を伸ばしていたイスラームの改革運動と手を組んだ。やがてイロリンは北のソコト帝国(ソコト帝国の成立)の傘下に入る。騎兵の源だった北の馬の道は、敵の手に落ちた。

1820年代にはダホメが貢納をやめて自立した。1830年代、オヨ・イレは放棄され、人々は南の森に近い土地へ移って新しいオヨを開いた。ヨルバの地はいくつもの勢力に分かれ、19世紀の後半まで内戦が続く。その争いで生まれた捕虜もまた、海岸から積み出された。
オヨの騎兵は、森とサバンナの境という地の利と、北の馬と南の海をつなぐ交易の上に成り立っていた。その両端を失ったとき、帝国もまた崩れた。いまもヨルバの人々の間では、アラフィンの位は伝統的な王として続いている。