できごと

オランダ東インド会社の設立

Dutch East India Company
AD1602年3月20日
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ポーランド・リトアニア共和国スウェーデンポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインWatassid MoroccoEngland and Irelandクリム・ハン国ヴェネツィア共和国スコットランドNaplesFinnmarkプロイセンHabsburg NetherlandsAD1602年3月20日アムステルダム
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概要

誰でも株を買え、その株を転売できる会社の最初。国ではなく会社が艦隊と兵を持ち、200年アジアの海を握った。

場所

アムステルダム
52.37°N 4.90°E · オランダ

本文

16世紀の末まで、ヨーロッパに届くアジアの香辛料の多くは、ポルトガルの船がリスボンへ運んでいた。オランダの商人はそれをリスボンで買い、北ヨーロッパに売りさばいて利益を上げていた。だがオランダは1568年からスペインに対して独立の戦いを続けており、1580年にスペイン王がポルトガル王を兼ねると、リスボンでの取引も難しくなった。それなら自分たちでアジアへ行けばいい。1595年、ハウトマンの率いる船団がアムステルダムを出て、ジャワ島に着いた。乗組員の多くを失ったが、持ち帰った胡椒は利益を生んだ。

その後の数年、アムステルダム、ゼーラント、ロッテルダムなどの都市が、それぞれ別々に会社を作ってアジアへ船を出した。互いに競って現地で香辛料を高く買い、本国で安く売ることになり、共倒れが見えてきた。スペインとポルトガルの艦隊に対抗するにも、ばらばらの商船では弱い。連邦議会の実力者オルデンバルネフェルトが仲介して、各都市の会社を一つにまとめた。1602年3月20日、連邦議会が特許状を与えて、連合東インド会社が生まれる。オランダ語の頭文字をとって VOC と呼ばれる。

アムステルダムの海洋倉庫(オランダ語版)とドック。
アムステルダムの海洋倉庫(オランダ語版)とドック。Wikimedia Commons Rijksmuseum · CC0

会社は六つの都市の支部から成り、支部の代表17人の重役会が全体を動かした。資本金はおよそ640万ギルダーで、半分あまりをアムステルダムが出した。出資できるのは大商人だけではなかった。アムステルダムの出資者名簿には1000人を超える名が並び、職人や奉公人も含まれていた。

新しかったことは二つある。一つは出資のかたちだった。それまでの会社は一回の航海ごとに資金を集め、船が戻れば清算して利益を分けた。VOC の特許は21年で、出資金はすぐには返されなかった。10年後に予定されていた清算も行われず、資本は会社の中にとどまり続けた。出資した人がお金を取り戻すには、持ち分を誰かに売るしかない。その売り買いの場がアムステルダム取引所になり、世界で最初の証券取引所とされる。株価の値下がりに賭ける空売りも、早くも1609年に現れている。出資者の責任は出した額までに限られた。誰でも買えて、転売でき、会社そのものは続いていく。いまの株式会社の原型になった。

連合東インド会社の構想を主導したヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト
連合東インド会社の構想を主導したヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトWikimedia Commons Workshop of Michiel Jansz. van Mierevelt · Public domain

もう一つは、会社が持った権限だった。喜望峰から東、マゼラン海峡までの貿易の独占に加えて、会社はオランダの名で条約を結び、要塞を築き、兵を雇い、総督を置き、戦争をすることを認められた。商社であると同時に、海の上の国家でもあった。

会社はまずインドネシアの島々で拠点を固めた。1619年、総督クーンがジャワ島のジャカトラを攻め落としてオランダ東インド会社のバタヴィアを築き、ここがアジアの本拠になる。1621年には、ナツメグを独占するためにバンダ諸島の虐殺と香辛料の独占を起こした。丁子はモルッカ諸島の一部に栽培を絞り、ほかの木は切り倒させた。1623年にはアンボン島でイギリス商館の人びとを処刑し、イギリスの勢力は香料諸島から退いてインドへ向かう。1641年にはポルトガルからマラッカを奪い、続いてセイロンの沿岸も手に入れた。1652年にはアジアへの航路の中継地としてケープ植民地の設置を開く。台湾にも1624年から城を構えたが、1662年に鄭成功の台湾によって追われた。

ヘンドリック・デ・ケイセルによる証券取引所の中庭
ヘンドリック・デ・ケイセルによる証券取引所の中庭Wikimedia Commons Job Adriaenszoon Berckheyde · Public domain

日本との関わりは1609年の平戸の商館に始まる。キリスト教を広めることに関心を示さなかったことが幕府に受け入れられ、鎖国の完成が整うと、1641年に長崎の出島へ移された。以後200年あまり、オランダは日本と交易を続けた唯一のヨーロッパの国になった。商館長は毎年のように江戸へ参府し、海外の事情をまとめた報告書を幕府に差し出した。日本の蘭学は、この細い窓口から入ってきたものになる。

会社の船は約200年のあいだにのべ数千回の航海を行い、ヨーロッパから送り出された人は100万人近くにのぼるとされる。航海は危険で、バタヴィア号の遭難のような遭難や反乱もあった。出資者への配当は長期にわたって高い水準を保ったとされる。その一方で、アジアの各地では、独占を守るために住民を力で従わせ、栽培を強いた。

1599年、ヤコブ・ファン・ネックの第二次アジア遠征のアムステルダム帰還(コルネリス・フロム画)
1599年、ヤコブ・ファン・ネックの第二次アジア遠征のアムステルダム帰還(コルネリス・フロム画)Wikimedia Commons Hendrick Cornelisz Vroom · Public domain

18世紀に入ると、イギリスの東インド会社に押され、アジアの域内交易の利益も細っていった。社員の私的な取引と汚職も広がった。1780年から1784年の第四次英蘭戦争で多くの船を失い、借金が膨らむ。1796年、フランス革命の影響下に生まれたバタヴィア共和国が会社の経営を引き取り、1799年12月31日、特許の期限とともに会社は解散した。領土と負債は国に引き継がれ、それがのちのオランダ領東インド、さらにインドネシアになる。

ハラリは物語「『サピエンス全史』で読む歴史」の第16章で、この会社を資本主義の章の主役の一人にする。王の財宝ではなく、見知らぬ大勢の投資家の信用が、艦隊と兵を動かした。国家が会社を作ったのではなく、会社が国家のように振る舞い、征服をした。投資家が利益を信じてお金を出し、そのお金が征服を生み、征服が利益を生む。その循環が、ここで最初に大きな形をとった。

動画(1)

117 ヨーロッパ諸国の海外進出 世界史20話プロジェクト第12話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第117講「ヨーロッパ諸国の海外進出」

出典(1)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

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