ハンザ同盟
概要
都市どうしが国を介さずに結んだ商業の連合。艦隊を持ち、王と条約を結び、200年北海とバルト海を握った。
場所
53.87°N 10.69°E · ドイツ
本文
12世紀から13世紀にかけて、ドイツの商人たちは北海とバルト海へ進出していった。陸の道は諸侯の関所と盗賊でふさがれ、海には海賊が出る。遠い外国の港では、言葉も法も違う。一人の商人が身を守るには、仲間と組むしかなかった。「ハンザ」とは、もともと商人の仲間や集団を指す言葉である。
その中心になったのが、バルト海の入口にあるリューベックだった。1159年にザクセン公ハインリヒ獅子公が町を建て直し、1226年には皇帝から帝国自由都市の特権を得た。1241年、リューベックと北海側のハンブルクが、両市を結ぶ道の安全を互いに守る取り決めを結ぶ。これがハンザの始まりの一つとされる。

商人の組合は、やがて都市そのものの連合へと形を変えた。1356年にはリューベックで最初のハンザ総会が開かれる。加わった都市は時期によって増減し、全体を確定した名簿も無いが、北海とバルト海の沿岸から内陸まで、100を超える都市が何らかの形で関わった。
ハンザは、外国の港に大きな商館を構えた。東のノヴゴロド(ルーシの成立)、西のロンドン、フランドルのブルッヘ、北のノルウェーのベルゲンである。商館の中ではハンザの商人が自分たちの法で暮らし、地元の権力者と特権の交渉にあたった。ベルゲンの港に並ぶ木造の商館の家並みは、いまも残っている。

運んだのは、暮らしに欠かせない品々だった。ノヴゴロドの毛皮と蜜蝋、ノルウェーの干しダラ、スウェーデンの銅と鉄、プロイセンやポーランドの穀物と木材、リューネブルクの塩、フランドルとイングランドの毛織物、ライン地方のぶどう酒。とくに、デンマーク領スコーネの沖で獲れるニシンを、リューネブルクの塩で漬けて内陸へ送る商いは大きな利益を生んだ(スコーネのニシン市)。荷を運んだのは、ずんぐりした船体に一本の帆柱を立てたコッゲ船である。
ハンザの都市は、法と町並みでも結ばれていた。バルト海沿岸の多くの町が、リューベックの都市法を手本として取り入れ、争いが起きればリューベックの参事会に判断を仰いだ。赤い煉瓦で高い切妻と尖塔を築く建築も、ハンザの町々に共通する姿になった。1349年には、イングランドから来た船がベルゲンに黒死病を運び込んだとされ、交易の網は疫病の通り道にもなった。

ハンザは軍隊も官僚も持たない、ゆるやかな連合だった。それでも、言うことを聞かない相手には禁輸で応じ、必要なら艦隊を出した。デンマーク王ヴァルデマー4世が1361年にゴットランド島の商業都市ヴィスビーを攻め落とすと、ハンザの諸都市は同盟を組んで戦い、勝った。1370年のシュトラールズントの和約で、ハンザはスコーネの城塞を15年間預かり、さらに次のデンマーク王を選ぶにはハンザの同意が要る、という条項まで認めさせた。都市の連合が、王国と対等に条約を結んだのである。
海賊とも戦った。14世紀末にバルト海と北海を荒らした海賊団の頭目シュテルテベーカーは、1401年にハンブルクで処刑されたと伝えられ、その後、義賊として伝説の主人公になった。

15世紀に入ると、ハンザの力は少しずつ削られていく。周りの国々で王の力が強まり、自国の商人を守るようになった。オランダの商人が、より安く大きな船でバルト海に入り込んだ。1494年にはモスクワ大公イヴァン3世がノヴゴロドの商館を閉じさせ、1598年にはエリザベス1世がロンドンの商館の特権を取り上げた。大西洋航路が開けて、交易の重心が西へ移ったことも響いた。
とくに打撃になったのは、オランダの黄金時代へ向かうオランダの台頭だった。オランダの商人はバルト海の穀物と木材を大量に西へ運び、ハンザの都市を通さずに取り引きした。ハンザは特権を守ろうとしたが、王の後ろ盾を持つ国の商人と、まとまりのゆるい都市の連合とでは、競う力に差がついていった。

最後のハンザ総会は1669年に開かれ、集まったのはわずかな都市だった。それでもリューベック、ハンブルク、ブレーメンは、その後も「ハンザ都市」を名乗り続け、いまも車のナンバーにその頭文字を残している。国境を越えて都市が手を結ぶという形は、のちのヨーロッパの統合を語るときにも、しばしば引き合いに出される。