チョーラ朝の海上進出
概要
南インドの王朝がスリランカから東南アジアまで艦隊を送った。インド洋が一つの交易圏として動く。
場所
10.79°N 79.14°E · インド・タミルナードゥ州(チョーラ朝)
関わった人(2)
ラージェーンドラ1世AD971年頃–AD1044年 · 王ラージャラージャ1世?–AD1014年 · 基礎を築いた本文
南インドの東海岸、カーヴェーリ川の三角州は、稲作の豊かな土地である。ここを本拠としたチョーラ朝は、古くからタミルの文学に名の見える家だったが、9世紀に勢いを取り戻し、10世紀の末に大きく飛躍した。その飛躍を始めたのが、985年に即位したラージャラージャ1世である。
ラージャラージャ1世は、まず南インドの周りの王国を抑え、続いて海を渡った。スリランカ北部に攻め込み、千年以上の歴史を持つ古都アヌラーダプラを破壊して、島の北半分を支配下に置いた。さらに西のモルディブ諸島にも艦隊を送っている。王はまた、土地と税の台帳を整え、村の自治の仕組みを利用して国を治めた。
1010年ごろ、ラージャラージャは都タンジャーヴールにブリハディーシュヴァラ寺院を完成させた。シヴァを祀るこの寺院の塔は高さが60メートルを超え、当時のインドで最も高い建物だった。壁には寺院に寄進された村や金、宝石、仕える楽師や踊り手の名が碑文として刻まれ、国の富がどこから集まったかを今に伝えている。
1014年に後を継いだ子のラージェーンドラ1世は、父の事業をさらに広げた。スリランカ全島を一時支配し、北へ遠征してガンジス川まで軍を進めた。その勝利を記念して新しい都を建て、「ガンジスを取ったチョーラの都」を意味するガンガイコンダチョーラプラムと名づけた。都の池には、ガンジスの水を運ばせて注いだという。

そして1025年ごろ、ラージェーンドラはベンガル湾を越えて艦隊を送り出した。標的は、マラッカ海峡を押さえて東西の海上交易を握っていたシュリーヴィジャヤの海上交易だった。チョーラの碑文は、マレー半島のケダ(カダーラム)やスマトラの港など、十を超える港を攻め落とし、シュリーヴィジャヤの王を捕らえたと誇っている(チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征)。インドの王朝が海を越えて東南アジアに大規模な軍を送った例は、ほかにほとんど無い。
なぜこの遠征が行われたのかは、はっきりしない。有力なのは、交易をめぐる争いとみる説である。この頃、中国では宋の成立のあと海の交易が盛んになり、南インドの商人も中国との取引を求めていた。マラッカ海峡を通る船から通行料を取り、港に寄ることを強いていたシュリーヴィジャヤは、チョーラの商人にとって邪魔な存在だった。タミルの商人の組合は、各地に支部を持ってインド洋の交易を担っており、王朝と深く結びついていた。一方で、王の威信を示すための遠征だったとみる説や、シュリーヴィジャヤが中国へのチョーラの使節を妨げたことへの報復とみる説もある。

いずれにせよ、チョーラは東南アジアを領土として治めたわけではない。港を襲って打撃を与え、交易の条件を自分たちに有利に変えさせた、と考えられている。シュリーヴィジャヤはその後も存続したが、この打撃で力が弱まり、海峡の覇権はしだいに分散していった。
チョーラの視線は中国にも向いていた。宋の記録には、「注輦」と呼ばれた南インドの国から、11世紀に何度か使節が来たことが記されている。南インド・東南アジア・中国の港が、季節風に乗る船によって結ばれ、一つの大きな交易の世界として動いていたことが分かる。

チョーラの海の力は、長くは続かなかった。スリランカでは1070年ごろ、シンハラの王がチョーラの勢力を追い出し、ポロンナルワを都に国を建て直した。チョーラ朝自体は13世紀まで続いたが、しだいに周りの王朝に押されて衰えた。
それでも、この時代の富が残したものは大きい。タンジャーヴールとガンガイコンダチョーラプラムの寺院は、今も祭礼が続く生きた寺院として世界遺産に登録されている。踊るシヴァを表す青銅の像など、チョーラ時代の青銅彫刻はインド美術の頂点の一つとされる。東南アジアの各地にはタミル語の碑文が残り、インド洋を行き来した商人たちの足跡を伝えている。