できごと

アムステルダム取引所

Amsterdam Stock Exchange
AD1602年
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ポーランド・リトアニア共和国スウェーデンポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインWatassid MoroccoEngland and Irelandクリム・ハン国ヴェネツィア共和国スコットランドNaplesFinnmarkプロイセンHabsburg NetherlandsAD1602年アムステルダム
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1602年の版図を描いています(21勢力)。

概要

東インド会社が、航海ごとでなく、21年の特許の会社として資本を集めた。アムステルダムだけで1143人が出資し、株は他人に譲れた。同じ年、証券取引所。世界で最初の株式市場。先物、空売り、オプション。1688年、ジョセフ・デ・ラ・ベガ『混乱の中の混乱』が、その狂騒を書いた。1637年にはチューリップ球根の先物で最初のバブルが弾けていた。

場所

アムステルダム
52.37°N 4.90°E · オランダ

本文

16世紀の終わり、スペインから独立を目指して戦っていたネーデルラント北部の商人たちは、ポルトガルが握っていたアジアの香辛料に手を伸ばした。1595年、四隻の船がアムステルダムを出てジャワへ向かう。帰ってきたのは三隻、乗組員249人のうち生きて戻ったのは87人だけだったが、積んできた胡椒は損を埋めるだけの値で売れた。それから数年のうちに、各地の都市で十いくつもの会社が作られ、合わせて60隻を超える船がアジアへ向かった。だが、競争が激しすぎた。現地では買い値が上がり、本国では売り値が下がる。

1602年3月20日、共和国の連邦議会は、これらの会社を一つにまとめて特許を与えた。連合東インド会社(オランダ東インド会社の設立)である。会社は喜望峰より東の交易を独占し、条約を結び、要塞を築き、兵を持つ権利まで与えられた。ここで新しかったのは、資本の集め方だった。それまでの会社は、航海ごとに出資を募り、船が帰ってくれば積荷を売って清算し、解散した。新しい会社は特許の期間を21年とし、最初の清算は10年後と約束して、その間は出資を返さないことにした。集まった資本は640万ギルダーを超え、アムステルダムの支部だけで1143人が出資者として帳簿に名を連ねた。大商人のほかに、職人や小売商、女中の名もある。

ベウルスプレイン5番地(アムステルダム証券取引所)
ベウルスプレイン5番地(アムステルダム証券取引所)Wikimedia Commons Bootuitjes · CC BY 2.0

出資は返ってこない。そのかわり、出資の権利は他人に売ることができた。誰かに譲るときは、会社の帳簿の名義を書き換えればよい。募集が締め切られるとすぐに、譲渡が始まった。お金がすぐに要る人は株を売り、会社の先行きを信じる人は買う。こうして、株の値段というものが生まれた。

売り買いの場所は、はじめは街なかの橋の上や教会の周りだった。1611年、建築家ヘンドリック・デ・カイセルの設計で、ダム広場に近い運河の上に、屋根付きの回廊が中庭を囲む取引所の建物が完成する。柱には番号が振られ、穀物、香辛料、海運保険、そして株と、扱う品ごとに人の集まる場所が決まっていた。取引は正午から2時間ほどで、時間を告げる鐘が鳴った。商品の取引所はアントワープやロンドンにもあったが、ひとつの会社の株を毎日のように大勢が売り買いする市場は、ここが初めてだった。世界最初の株式市場と呼ばれるのはそのためである。

オランダ東インド会社の債券、1623年11月7日付、2400フローリン
オランダ東インド会社の債券、1623年11月7日付、2400フローリンWikimedia Commons Jacob Cornelisz. van Neck (Necq) · Public domain

株の市場ができると、それを使う技も生まれた。決まった日に決まった値で受け渡す先渡しの約束、権利だけを売り買いするオプション、借金で株を買う信用取引。1609年には、会社の創設に関わりながら経営陣と対立した商人イサーク・ル・メールが、仲間と組んで、手元に無い株を大量に売り約束し、株価を下げようとした。いまで言う空売りの仕掛けである。翌1610年、共和国は持っていない株を売ることを禁じる布告を出したが、この手の取引はその後もなくならなかった。配当は、はじめは現金ではなく、メースや胡椒といった香辛料そのもので払われたこともある。

熱狂も生まれた。1630年代の半ばには、チューリップの球根の値が、まだ土の中にある球根の先渡しの約束を通じて吊り上がり、1637年2月に崩れた(チューリップ・バブル)。被害の規模については、19世紀の書物が大げさに伝えたという見直しが進んでいるが、値上がりが値上がりを呼んで突然崩れるという動きが記録に残った、早い例であることは確かである。

チューリップ・バブルに関わる図版:Jan Brueghel the Younger, Satire on Tulip Mania, c. 1640
チューリップ・バブルWikimedia Commons Jan Brueghel the Younger · Public domain

1688年、アムステルダムに住むセファルディ系ユダヤ人の商人ジョセフ・デ・ラ・ベガが、スペイン語で『混乱の中の混乱』という本を出した。哲学者と商人と株の投機家の三人が語り合う対話の形で、取引所の様子を描いている。この商売はヨーロッパで最も公正にして最も欺瞞に満ち、最も高貴にして最も悪名高い、と彼は書いた。噂で値が動き、持たない株を売り、持たない金で買う。株式市場を正面から描いた、最も古い本とされる。投機の心得として、人に売り買いを勧めるな、手にした利益は惜しまず受け取れ、この勝負に勝ちたい者は忍耐と金を持て、といった教えも並べられていて、いまの投資の入門書とあまり変わらない。

アムステルダムの取引所は、株だけでなく、国債や為替、保険の取引も集め、17世紀を通じてヨーロッパの金融の中心になった。1609年には為替銀行も作られ、遠い国どうしの支払いがここで決済された。その仕組みはやがてロンドンへ移り、18世紀のイギリスで、国債を株に換える南海会社の熱狂(南海泡沫事件)を生むことにもなる。遠く離れた日本の大坂でも、1730年に米の先物市場が公認されている(堂島の米市場)。

堂島の米市場に関わる図版:Dojima komeichiba
堂島の米市場Wikimedia Commons Tonatsu · CC0

東インド会社は、ジャワのバタヴィアを拠点に(オランダ東インド会社のバタヴィア)、香辛料の産地を武力で押さえ、17世紀の後半には100隻を超える船と数万人の人員を抱えるまでになった。長崎の出島で日本と交易したのもこの会社である。だが、18世紀にはイギリスとの競争と腐敗に蝕まれ、負債を抱えて、1799年の末に解散した。その領土と借金は、オランダの国家が引き継いだ。会社は消えたが、出資を返さず、持ち分を市場で売り買いするという仕組みは、世界中の株式会社と証券取引所に受け継がれている。

同じ時代のできごと

太閤検地AD1582年(天正10年)〜グレゴリオ暦への改暦AD1582年10月15日天正遣欧少年使節AD1582年2月20日(天正10年1月28日)イェルマークのシビル汗国征服AD1582年本能寺の変AD1582年6月21日山崎の戦いAD1582年7月2日(天正10年6月13日)賤ヶ岳の戦いAD1583年6月11日(天正11年4月21日)小牧・長久手の戦いAD1584年5月18日(天正12年4月9日)
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1602年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →