『東方見聞録』

概要
ジェノヴァの獄中で、同房の物語作家に旅を語った。ヨーロッパのアジア観を数百年にわたって形づくる。
場所
44.41°N 8.95°E · イタリア・リグーリア州
関わった人(1)
マルコ・ポーロAD1254年–AD1324年 · 口述本文
1298年頃、イタリアのジェノヴァの牢獄で、一人のヴェネツィア商人が、同じ牢にいた男に長い旅の話を語った。語ったのはマルコ・ポーロ、書き取ったのはピサ出身のルスティケロという物語作家だった。こうしてできた本が、日本で『東方見聞録』と呼ばれている。
マルコは1254年、ヴェネツィアの商人の家に生まれた。父と叔父は、マルコが幼いころから東方へ商売に出ていて、モンゴルの皇帝フビライ・ハンの宮廷まで行って戻ってきた。1271年、17歳のマルコは、ふたたび東へ向かう父と叔父に連れられて旅立った。中東から中央アジアを越え、1275年頃に、クビライの夏の都、上都に着いたとされる。当時、ユーラシアの東西はモンゴルの支配のもとでつながり、駅の制度(モンゴルの站赤)が旅を支えていた。

本によれば、マルコはクビライに気に入られ、使いとして中国の各地を旅した。それから17年ほどを元で過ごしたという。1290年頃、イランのイル・ハン国に嫁ぐモンゴルの王女を送り届ける役を得て、海路で帰途についた。東南アジアとインドの沿岸を回ってイランに着き、1295年にヴェネツィアへ戻った。24年ぶりだった。
その数年後、ヴェネツィアとジェノヴァの間で戦争があり、マルコは捕虜になった。1298年の海戦で捕らえられたとする説が知られるが、別の小さな戦いだったとする説もある。牢の中で、アーサー王の物語を書いたことのあるルスティケロと出会った。

本は、ルスティケロが慣れた言葉、イタリア語が混じったフランス語で書かれた。そのため、出だしや戦いの場面の書き方は、騎士の物語によく似ている。内容は、旅の日記ではなく、通った国々や町の案内として並べられている。どの土地にどんな人が住み、何を信じ、何を作り、何を売っているか。商人の目で見た世界の地誌である。
そこには、当時のヨーロッパの人々が知らなかったことが数多く書かれていた。紙で作ったお金が、金や銀と同じように通用していること。燃える黒い石、石炭を燃料にしていること。塩を国が独占して売っていること。馬を乗り継ぐ駅が国じゅうに置かれていること。杭州の町の大きさと豊かさ。そして東の海の島「ジパング」には金が豊かにあるという話。これがヨーロッパの書物に日本が現れた最初とされる。

内容の正確さには、昔から疑いがかけられてきた。万里の長城が出てこない。茶を飲む習慣も、女性の纏足も、漢字も出てこない。マルコは揚州で3年間役人を務めたと書かれているが、中国の記録にその名は見つからない。父と叔父が襄陽の包囲で投石機を作って元軍を助けたという話は、包囲が終わったのが一行の到着より前のことで、つじつまが合わない。こうした点から、マルコは中国まで行かず、ペルシアなどで聞いた話を集めたのだという説まで出された。
一方で、紙幣の作り方や、塩の値段と専売の仕組み、税の取り方などについては、中国側の史料と細かく一致する記述が多い。現地にいなければ知りえない詳しさだとして、近年の研究では、実際に中国に行ったとみる見方が有力である。長城は当時、いまのような姿では無かった。マルコはモンゴルの支配層の側から中国を見ていて、中国の人々の暮らしには近づかなかった。書かれていないことが多いのは、そのためと説明される。誇張や、ルスティケロの脚色も混じっているとみられる。

本はたちまち評判になり、各地の言葉に訳され、写されて広まった。印刷術が広まる前の時代で、写すたびに省かれたり書き加えられたりした。今に残る写本は140種を超え、どれも中身が少しずつ違う。もとの原稿は失われている。
マルコはヴェネツィアに戻って商人として暮らし、1324年に死んだ。後に書かれた記録によれば、死の床で、話の嘘を取り消すよう友人たちに勧められ、見たことの半分も話していない、と答えたという。
この本は、ヨーロッパの人々のアジアの姿を、数百年にわたって形づくった。地図を作る人々は、本に書かれた地名を地図に描き込んだ。15世紀の末、コロンブスは、この本のラテン語版を読み込み、余白にたくさんの書き込みをしている。その本はいまもスペインのセビリアに残る。西へ向かえば、金の島ジパングとクビライの国にたどり着ける。そう信じて大西洋を渡った(コロンブスの到達)。