できごと

囲い込み

Enclosure
1750年 – 1850年
期間を持つできごと重要度 5
囲い込みに関わる図版:Reeve and Serfs
Reeve and Serfs Wikimedia Commons anonymous (Queen Mary Master) · Public domain

概要

共有地に柵が立ち、法で私有地になった。羊と機械のために土地が空き、行き場を失った人びとが工場の働き手になる。土地が売り買いされる商品になった過程でもある。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

中世から近世のイングランドの村の多くでは、畑は細長い地条に分かれ、何人もの農民の地条が入り組んで並んでいた。収穫が終わると畑は家畜の放牧に開かれ、村の周りには誰の持ち物でもない共有地が広がっていた。村人はそこで牛や羊や鵞鳥を放し、薪や柴を集め、泥炭を切り、木の実を拾った。どの家に何頭まで放してよいかは、村の慣習で決まっていた。土地を持たない人でも、共有地があれば、わずかな家畜を飼い、冬の燃料を得て、なんとか生きていける余地があった。

この入り組んだ畑と共有地に柵や生け垣を巡らせ、一人の持ち主が自由に使える土地に変えることを、囲い込みという。最初の大きな波は15世紀から16世紀で、羊毛の値が上がったため、地主たちが畑や共有地を囲って羊の牧場に変えた。村が丸ごと消えた例もある。トマス・モアは1516年のトマス・モア『ユートピア』で、羊が人間を食い尽くしている、と書いてこれを批判した。政府も農民の暴動を恐れ、何度も囲い込みを制限する法を出している。

中世の荘園の見取り図
中世の荘園の見取り図Wikimedia Commons William R. Shepherd, Historical Atlas , New York, Henry Holt and Company, 1923 · Public domain

二度目の、そしてより大きな波は、18世紀の後半から19世紀の前半に来た。今度は議会が、村ごとに個別の法を通して囲い込みを進めた。村の土地の価値の大部分を持つ地主たちが議会に請願すると、委員が派遣されて土地を測り、権利を調べ、地条と共有地をまとめて区画に分け直し、持ち主ごとに割り当てた。1750年から1850年のあいだに4000を超える囲い込みの法が通り、イングランドの土地の5分の1ほどが対象になったとされる。とりわけナポレオン戦争の時期に、穀物の値が上がって数が増えた。

理屈はあった。入り組んだ地条では、新しい作物も新しい耕し方も、村全体の同意がなければ始められない。共有地の家畜は品種改良ができず、誰もが自分の取り分だけを考えて草地を荒らす。土地をまとめて一人の持ち主に任せれば、カブやクローバーを取り入れた輪作で地力を保ち、家畜を改良し、湿地の排水にも投資できる。実際に、囲い込みが進んだ時代に、イングランドの農業の生産性は大きく上がった。増えていく都市の人口を養えたのは、その成果でもあった。

Anthropic Farm Units
Wikimedia Commons derivative work: Unitfreak ( talk ) Ploughmen_Fac_simile_of_a_Miniature_in_a_very_ancient_Anglo_Saxon_Manuscript_publish · Public domain

失ったのは、権利を書き付けで証明できない人びとだった。土地の割り当ては、持っている土地と、証明できる権利に応じて行われた。慣習で共有地を使ってきただけの小屋住みの人びとは、ほとんど何も受け取れなかった。わずかな土地を割り当てられた小農も、柵や生け垣を作る費用と、測量や手続きの費用の分担に耐えられず、土地を売ることが多かった。牛一頭、鵞鳥数羽を飼って暮らしを補っていた家々は、賃金だけで生きる労働者になった。その賃金が足りないとき、彼らを支えたのはエリザベス救貧法以来の救貧の仕組みだった。

農民は黙っていたわけではない。夜のうちに柵を壊し、生け垣を引き抜き、請願を出した。囲い込みで故郷の野原が変わっていくのを見た農民の詩人ジョン・クレアは、失われた共有地の風景を嘆く詩を残している。議会に出された請願の多くは地主のもので、反対する側の声はほとんど届かなかった。

囲い込みが、村を出た人びとを工場の働き手に変えたのかどうかは、長く議論されてきた。20世紀の初めに、ハモンド夫妻は、囲い込みが農民を土地から追い出し、農村の暮らしを壊したと描いた。これに対して20世紀の半ばからの研究は、囲い込まれた村でも生け垣の植え付けや排水の工事で仕事はむしろ増えた場合があり、都市の労働力は主に人口の増加から来た、と反論した。いまでは、地域によって影響が大きく違ったこと、農村の貧しい人びとの暮らしの支えが失われたことは確かだが、それだけで産業革命の労働者が生まれたわけではない、という見方が広く取られている。

産業革命に関わる図版:Powerloom weaving in 1835
産業革命Wikimedia Commons Illustrator T. Allom, Engraver J. Tingle · Public domain

経済史家カール・ポランニーは、1944年の物語「『大転換』で読む歴史」で、囲い込みを「金持ちの貧者に対する革命」と呼んだ。ポランニーにとって、囲い込みは単なる農業の改良ではなかった。それまで村の暮らしと慣習と結びついていた土地が、市場で売り買いされる商品として扱われはじめた過程だった。ポランニーは、本来は商品ではないものを商品として扱う市場経済が社会を砕いていく様を、詩人ブレイクの言葉を借りて「悪魔のひき臼」と呼んだ。囲い込みは、そのひき臼が回り始める前触れだった。

ポランニーによれば、同じことが労働と貨幣にも起きた。人間の働きそのものが労働市場で値をつけられる商品になり、お金もまた市場の中で売り買いされるものになった。土地と労働と貨幣を商品とみなすことは作り事にすぎないが、市場経済はその作り事の上に立っている。社会はそれに対して、保護の法や労働組合や中央銀行のような仕組みで抵抗した、というのが本の筋になる。共有地のゆくえは、いまも、地球の大気や海、ネットの上の知識のような「誰のものでもないもの」をどう扱うかという議論の中で、繰り返し参照されている。

出典(1)

カール・ポランニー(野口建彦、栖原学 訳) 『大転換 市場社会の形成と崩壊』第3章・第4章(「悪魔のひき臼」と土地の商品化)

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