モールスの電信
概要
ワシントンの最高裁の部屋からボルティモアまで60キロ。「What hath God wrought(神は何を成し給うたか)」。画家のモールスが、点と線の符号と、電磁石の受信機で。10年で全米に電線、1858年に大西洋ケーブル(3週間で切れた。1866年に成功)。情報が人より速く動く最初。株価、ニュース、戦争の命令、時報。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
サミュエル・モールスAD1791年4月27日–AD1872年4月2日 · 送った本文
19世紀のはじめまで、知らせが届く速さは、それを運ぶ人や馬や船の速さとほとんど変わらなかった。例外はフランスのシャップの腕木通信のように、丘の上の塔に立てた腕木の形を望遠鏡で読み取って次の塔へ伝えるやり方で、晴れた昼なら速かったが、夜や霧の日には使えず、国の通信にしか使われなかった。電気で信号を送る考えは18世紀からあったが、実用になる形が見えてきたのは、電流が磁石の力を生むことが発見された1820年代以降である。
1837年、イギリスのウィリアム・クックとチャールズ・ホイートストンは、電流で5本の針を振らせて文字を指し示す電信機の特許を取り、まもなく鉄道で使われはじめた(鉄道と標準時)。同じ年、大西洋の向こうで、ひとりの画家が電信の特許を出願していた。サミュエル・モールスである。
モールスはイェール大学を出て絵を学び、肖像画家として名を上げた人物だった。1825年、ニューヨーク市の依頼で首都ワシントンに滞在してラファイエットの肖像を描いていたとき、ニューヘイブンの妻が重い病にかかったという手紙が届いた。急いで帰ったが、着いたときには妻はもう葬られていた。知らせが遅すぎたこの経験が、のちに速い通信を求める気持ちにつながったと語られることが多い。1832年の秋、ヨーロッパでの修業を終えて帰る船の上で、彼は同乗した学者から電磁石の話を聞き、電気で遠くへ信号を送れるはずだと思い立ったという。
モールスは物理学者ではなかった。最初の装置は、画布を張る木枠を流用した粗末なものだった。彼を助けたのは、大学の同僚だった化学者レナード・ゲイルと、電磁石の研究で知られた物理学者ジョセフ・ヘンリーの成果、そして1837年に助手になった若い機械工アルフレッド・ヴェイルである。ヴェイルの家は製鉄所を営んでおり、資金と工房を提供した。電流を流したり切ったりする時間の長さで、短い点と長い線を作り、その組み合わせで文字を表す。使われることの多い文字ほど短い符号にする。英語で最も多いEは点一つになった。どの文字が多いかを調べるため、ヴェイルは印刷所で活字の数を数えたと伝えられる。符号の完成にヴェイルがどれほど貢献したかは、のちに論争になっている。受信側では、電磁石が紙の帯に点と線を刻んだ。やがて熟練した通信士は、紙を見ずに受信機の音だけで符号を聞き取るようになった。

研究には金が要った。モールスは議会に資金を求めて何年も働きかけた。1843年3月3日、会期の最後の日の深夜に、議会はようやく3万ドルの支出を認めた。審議のなかでは、ついでに催眠術の研究にも金を出せという、からかいの修正案まで出されている。資金を得たモールスは、ワシントンとボルティモアのあいだの鉄道に沿って電線を引いた。初めは電線を鉛の管に入れて地下に埋めたが、絶縁がうまくいかずに失敗し、木の柱に架けるやり方に切り替えた。この工事を担った一人が、のちにコーネル大学を創設するエズラ・コーネルである。
1844年5月24日、モールスは国会議事堂の中にあった最高裁判所の部屋から、約60キロ離れたボルティモアの鉄道の駅で待つヴェイルに向けて、最初の公式の電文を打った。言葉を選んだのは、モールスを支えた特許局長の娘アニー・エルズワースで、旧約聖書の民数記から取った「神は何を成し給うたか」という一句だった。ヴェイルは同じ言葉を打ち返した。

それから数日のうちに、電信の力が目に見える形で示された。ボルティモアでは民主党の大会が開かれており、副大統領の候補に選ばれた上院議員サイラス・ライトが、ワシントンから電信で辞退の返事を送った。大会の代議員たちは、そんなに早く返事が来るはずがないと信じず、わざわざ使いを出して確かめたという。
電信は驚くほど速く広がった。1846年にはニューヨークの新聞社が共同で電信を使ってニュースを集める組織を作った。のちのAP通信である。1850年代には数十の会社が乱立し、やがて合併してウェスタン・ユニオンという巨大な会社が生まれた。1861年10月には大陸を横断する電信がつながり、その2日後、馬の乗り継ぎで東西の手紙を運んでいたポニー・エクスプレスは廃業を告げた。大陸横断の鉄道より8年早い(大陸横断鉄道の開通)。1858年には大西洋の海底にケーブルが敷かれ、ヴィクトリア女王がアメリカ大統領に98語の祝電を送ったが、届くまでに16時間以上かかり、ケーブルは数週間で壊れた。大西洋の両岸が安定してつながったのは1866年である(大西洋横断電信ケーブル)。

電信は、情報を人や物より速く動かした最初の技術だった。ニューヨークとシカゴの穀物の値段、ロンドンとニューヨークの株価がほとんど同時に分かるようになり、各地の市場が一つに結ばれた。新聞には遠くの町のその日のニュースが載るようになった。鉄道は単線の上で列車の行き違いを電信で調整した。南北戦争では、リンカーン大統領が陸軍省の電信室に通い、戦場からの電報を自分で読み、命令を返した。各地の時計を電信で合わせることも始まり、アメリカの鉄道が全国の標準時をそろえたのは1883年である。
モールス自身は、特許をめぐって長い争いを強いられたが、1854年に最高裁判所が彼の特許を認め、晩年は富と名声に包まれた。1872年、ニューヨークで80歳で亡くなった。点と線の符号は、ヨーロッパで改良された国際式の形で世界に広がり、電話(ベルの電話)や無線(マルコーニの大西洋横断無線)の時代になっても長く使われた。船の遭難信号には1906年の国際会議でSOSが定められ(SOSの採用)、モールス符号による遭難通信は1999年まで続けられた。