大西洋奴隷貿易

概要
1200万人以上がアフリカから大西洋を越えて運ばれた。三つの大陸の人口と社会が、この一つの流れで作り替えられる。
場所
6.33°N 5.60°E · ナイジェリア
本文
16世紀の初めから19世紀の後半までのおよそ350年のあいだに、1200万人を超える人々がアフリカの海岸で船に積み込まれ、大西洋の向こうへ運ばれた。航海の途中で命を落とした人を除き、アメリカ大陸とカリブ海の島々に生きて着いたのは1000万人あまりと推計されている。これは、航海の記録を一隻ずつ集めた研究者たちの共同の調べによる数字で、記録に残らなかった航海を考えれば、実際はもう少し多いかもしれない。人類の歴史で最大の、海を越えた強制移住である。
始まりは15世紀のポルトガルだった。アフリカの西岸を南へ進んだポルトガル人は、金や象牙とともに人を買い、ヨーロッパや大西洋の島々の砂糖農園に送った。1482年には今のガーナの海岸に交易の拠点エルミナ城の建設を築いている。1492年にコロンブスがカリブ海に着き、スペインとポルトガルがアメリカ大陸に植民地を広げると、事情は一変した。先住民は征服と、ヨーロッパから持ち込まれた疫病で激減し、鉱山や農園で働かせる人手が足りなくなった。その穴を埋めるために、アフリカから人が運ばれるようになる。1526年頃には、アフリカから直接アメリカ大陸へ向かう奴隷船の航海が始まったとされる。

同じ1526年、中部アフリカのコンゴ王国の王アフォンソ1世は、ポルトガル王に宛てて手紙を書いた。キリスト教に改宗し、ポルトガルとの交わりを望んだこの王は、ポルトガルの商人たちが王国の自由民や貴族の子までさらって売っていると訴え、商人を送るのをやめてほしいと頼んだ(アフォンソ1世の手紙)。王は奴隷という制度そのものを否定したわけではない。だが、交易が王国の秩序を内側から食い破っていくことを、早くから見抜いていた。願いは聞き入れられなかった。
17世紀に入ると、ブラジルとカリブ海で砂糖のプランテーションが急速に広がり、奴隷の需要は跳ね上がった(カリブの砂糖プランテーション)。オランダ、イギリス、フランスもこの交易に乗り出し、18世紀には最盛期を迎える。この一世紀だけで600万人以上が運ばれた。

交易はしばしば三角貿易と呼ばれる。ヨーロッパの港を出た船は、布や銃、火薬、酒、金属の器などを積んでアフリカの海岸へ向かう。そこで品物と引き換えに人を買い、大西洋を渡ってアメリカ大陸へ運ぶ。売った代金で砂糖やタバコ、綿、コーヒーを買い込み、ヨーロッパへ戻る。もっとも、すべてがこの形だったわけではない。最大の行き先だったブラジルでは、ブラジルの港とアフリカのアンゴラなどを直接往復する船が多かった。
アフリカの内陸から海岸まで人を連れてきたのは、多くの場合アフリカの側の商人や国家だった。ヨーロッパ人は病気を恐れて内陸に深く入らず、海岸の砦や船の上で取引した。戦争の捕虜や、襲撃でさらわれた人、罪を問われた人、借金のかたに取られた人が、海岸へと送られた。ベニン湾のダホメや、黄金海岸のアシャンティのように、この交易で富と銃を手に入れて強大になった国もあった(ダホメの女性部隊、アシャンティ王国)。銃を得るために人を捕らえ、その銃でまた人を捕らえる循環が、内陸で回った。需要が先にあり、供給の仕組みがそれに合わせて作り替えられていった。

最も多くの人が積み出されたのは、コンゴやアンゴラを含む中西部アフリカで、全体の4割を超える。続いてベニン湾、ビアフラ湾、黄金海岸、セネガンビアなどである。ベニン湾の沿岸は「奴隷海岸」とまで呼ばれた(ラゴスとベニン湾の交易)。
大西洋を渡る航海は「中間航路」と呼ばれる。人々は鎖でつながれ、船倉の棚に、横になる隙間もないほど詰め込まれた。航海は1か月から3か月ほどかかり、赤痢などの病気と栄養不足、暴力で、平均して1割を超える人が途中で死んだ。死者の割合は時代とともに下がったが、それでも船は「浮かぶ墓場」だった。1781年には、イギリスの奴隷船ゾング号の船長が、飲み水が足りなくなったとして130人以上を生きたまま海に投げ込み、その「積み荷の損失」の保険金を請求する事件まで起きている。

行き先の内訳を見ると、今のアメリカ合衆国に直接運ばれたのは40万人に満たず、全体の4%ほどにすぎない。半分近くはカリブ海の島々へ、4割あまりはブラジルへ向かった。砂糖のプランテーションでの労働は苛酷で、死ぬ人が生まれる人を上回り、常に新しい人手で補わなければならなかったからである。北米では、奴隷の人口は自然に増えていき、19世紀の半ばには400万人に達した。北米の奴隷制は、輸入より出生で拡大した点で特異だった。
この交易は、大西洋をめぐる三つの大陸の社会を作り替えた。アメリカ大陸では、アフリカから来た人々とその子孫が、ブラジルやカリブ海の多くの地域で人口の多数を占めるようになった。彼らが持ち込んだ言葉や信仰、音楽、料理は、新しい文化の土台になった。ヨーロッパでは、砂糖やタバコの消費が広がり、港町と商人が富を蓄えた。この富がイギリスの産業革命をどこまで支えたのかについては、研究者のあいだで長く議論が続いている。アフリカでは、働き盛りの若い人が大量に奪われ、人口の伸びが抑えられ、社会と国家のあり方がゆがめられた。肌の色で人を分け、黒人を奴隷にふさわしい者とみなす考え方も、この交易の中で制度として固められていった。

18世紀の後半、イギリスで廃止を求める運動が起きた。クエーカー教徒や福音派の人々が声を上げ、奴隷船の詰め込みの図が配られ、元奴隷のオラウダ・イクイアーノは自らの体験を本にして各地で語った(イクイアーノの自伝)。砂糖を買わない運動も広がった。1791年からのハイチ革命は、奴隷が自ら立ち上がれば体制を覆せることを示し、農園主たちを震え上がらせた。
1807年、イギリスは自国の船による奴隷貿易を禁じ、翌年にはアメリカ合衆国も奴隷の輸入を禁じた。イギリス海軍は西アフリカの沖に艦隊を置いて奴隷船を取り締まった。それでも交易は止まらなかった。ブラジルとキューバへの密貿易は続き、19世紀に入ってからも300万人を超える人が運ばれている。ブラジルへの輸入が実際に途絶えたのは1850年代、記録に残る最後の大西洋の奴隷船がキューバに着いたのは1860年代の半ばのことである。
交易を止めることと、奴隷制そのものを終わらせることは別だった。イギリスが植民地の奴隷制を廃止したのは1833年(イギリスの奴隷制廃止法)、アメリカ合衆国は南北戦争を経た1865年、そしてアメリカ大陸で最後になったブラジルは1888年である(ブラジルの奴隷制廃止)。

奴隷にされた人々の大半は、名前さえ記録に残っていない。航海の記録に残るのは、船の名と、積み込まれた数と、着いた数だけである。いまアメリカ大陸に暮らす何千万人ものアフリカ系の人々の祖先が、その数字の中にいる。