チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征
概要
ベンガル湾を渡って、海峡の港市国家を攻めた。インドの王朝が海の向こうへ軍を送った、数少ない例になる。
場所
-2.98°N 104.78°E · インドネシア(シュリーヴィジャヤの中心)
関わった人(1)
ラージェーンドラ1世AD971年頃–AD1044年 · 総指揮本文
11世紀の初め、南インドのチョーラ朝は、その歴史で最も強い時代を迎えていた(チョーラ朝)。ラージャラージャ1世がスリランカの北部やモルディブの島々に兵を送り、その子ラージェンドラ1世は、北はガンジス川まで遠征して、その水を新しい都に運ばせた。都は「ガンジスを取ったチョーラの都」、ガンガイコンダチョーラプラムと名づけられた。インド洋の西と東を結ぶ交易の利を、チョーラは海から押さえようとしていた(チョーラ朝の海上進出)。
インドと中国の間の海の道には、どうしても通らなければならない場所がある。スマトラ島とマレー半島の間のマラッカ海峡と、その南のスンダ海峡である。7世紀からこの海峡を押さえてきたのが、スマトラ島のパレンバンを中心とする港市国家シュリーヴィジャヤだった(シュリーヴィジャヤの海上交易)。季節風を待つ船は、その港に寄り、通行料や関税を払った。唐の僧の義浄も、インドへの往き帰りにこの国に長く滞在し、仏教を学んでいる(義浄のシュリーヴィジャヤ滞在)。

チョーラとシュリーヴィジャヤは、もともと友好的な間柄だった。11世紀の初め、シュリーヴィジャヤの王は、チョーラの港ナーガパッティナムに仏教の僧院を建て、ラージャラージャ1世はそれに村の収入を寄進している。その記録を刻んだ銅板が、いまオランダのライデンに残る。
それが、1025年ごろ一変した。ラージェンドラ1世の軍が、船団を組んでベンガル湾を渡り、シュリーヴィジャヤとその支配下の港を次々に襲ったのである。

遠征の記録は、チョーラの都タンジャーヴールの寺院の壁などに刻まれた王の頌徳文に残っている。そこには、海を越えて攻め落とした地名が並ぶ。シュリーヴィジャヤ、マレー半島のカダーラム(いまのケダ)、スマトラ北部のイラームリデーシャム、ランカスカ、タームラリンガ、ニコバル諸島。王サングラーマ・ヴィジャヨーットゥンガヴァルマンを捕らえ、多くの財宝と、宝石で飾られた都の門を奪った、とある。
なぜ攻めたのかは、はっきり書かれていない。チョーラの商人たちが、シュリーヴィジャヤの関税や妨害に苦しんでいたからだという説がある。海峡の交易の主導権を奪うためだという説もある。東南アジア大陸部のクメールの王が、敵対する国との争いにチョーラの助けを求めたことと結びつける研究者もいる。いずれも決め手は無い。

チョーラは、この地を占領して治めたわけではなかった。打撃を与えて財宝を持ち帰り、それで終わった。それでも、海峡の力の釣り合いは変わった。シュリーヴィジャヤは力を落とし、その後、勢力の中心はパレンバンからジャンビへ移っていったと考えられている。
チョーラの商人たちは、その後も海峡と東南アジアで活発に動いた。「五百人組」と呼ばれる商人の組合はインド洋の各地に支部を持ち、スマトラ島北西岸のバルスでは、1088年の日付を持つタミル語の碑文が見つかっている。半世紀ほど後には、チョーラの王が再びカダーラムに兵を送り、征服した地をその土地の王に返したと記録されている。

中国の宋の記録にも、「注輦」の名でチョーラの使節が何度も訪れたことが記されている。宋の朝廷にとって、チョーラはシュリーヴィジャヤの向こうにある遠い国で、ときにはシュリーヴィジャヤに従う国とさえ書かれた。南の海の国々が互いの格をめぐって張り合う様子が、記録の食い違いに表れている。
インドの王朝が、大きな海を越えて遠くの国へ軍を送った例は、この遠征のほかにはほとんど無い。インドの歴史では、王朝の関心はふつう陸の上の争いに向いていた。チョーラは、海の交易がもたらす富を国の力の柱に据えた、珍しい王朝だった。
海峡の主導権は、その後も持ち主を変えた。15世紀にはマラッカ王国が港として栄え(マラッカ王国の成立)、明の鄭和の艦隊も寄港した。そして1511年、ポルトガルがそのマラッカを奪う(マラッカの陥落)。海峡を押さえる者がインド洋の交易を握るという構図は、チョーラの時代から変わっていない。