キルワとインド洋交易
概要
東アフリカの港市がアラビア・インド・中国と結ばれた。スワヒリ語はこの交易の中で育つ。
場所
-8.96°N 39.51°E · タンザニア
本文
アフリカの東の海岸は、毎年向きを変える季節風によってアラビアやインドとつながっていた。冬は北東から風が吹いて船を南へ運び、夏は南西の風が船を北へ戻す。この風に乗って、ソマリアからモザンビークにかけての海岸には、紀元後1千年紀の後半から港の町が連なっていった(スワヒリ海岸の交易都市)。住んでいたのは土地のバントゥー語を話す人々で、そこへアラブやペルシアの商人が来て住み着き、通婚し、イスラームが広まった。この海岸の言葉と文化を、アラビア語で「海岸の人々」を意味する語からスワヒリと呼ぶ。
キルワは、今のタンザニア南部の沖に浮かぶ小さな島キルワ・キシワニにあった。16世紀にまとめられた『キルワ年代記』は、10世紀にペルシアのシーラーズから来た王子アリー・ブン・アル=ハサンが、土地の首長から島を買い取って町を開いたと語る。布を島のまわりに並べた長さだけ買った、という話もある。どこまで史実かは分からず、後に王家の由緒を飾るために語られたものと見る研究者が多い。

キルワの富を支えたのは金だった。はるか南のソファラ(今のモザンビーク)の港には、内陸のグレート・ジンバブエ(グレート・ジンバブエの繁栄)の周辺で採れた金が運ばれてきた。13世紀の末にキルワはソファラを押さえ、金の流れを自分の港に集めることに成功した。季節風の届く南の端に近いキルワは、南からの金と北からの品を積み替える中継の港になった。金のほかに象牙や奴隷、亀の甲羅も送り出され、代わりにインドの綿布、ペルシアやアラビアの品、中国の陶磁器が入ってきた。遺跡からは中国の青磁や青花の破片が数多く出土している。
最も栄えたのは14世紀である。スルタンのアル=ハサン・ブン・スライマーンの時代には、島の端の崖の上に、サンゴ石で巨大な宮殿フスニ・クブワが建てられた。百を超える部屋と中庭、八角形の水浴場を持ち、当時のサハラ以南のアフリカで最大級の石の建物とされる。町の大モスクも、この頃にドームとアーチを連ねた形に大きく広げられた。キルワは独自の銅貨を鋳造し、スルタンの名を刻んだ。
1331年ごろ、旅行家のイブン・バットゥータがこの町を訪れている(イブン・バットゥータの旅)。イブン・バットゥータは、キルワを世界で最も美しく、最もよく建てられた町の一つと書いた。家々は木で造られ、屋根は葦で葺かれていたとも記しており、石造りだったのは宮殿やモスクなど一部だったらしい。スルタンは異教徒の住む内陸へたびたび兵を出し、戦利品の五分の一を貧しい者や巡礼者に分け与えた。物乞いが衣をねだると、スルタンはその場で自分の衣を脱いで与えた、という話も残している。

14世紀のなかばを過ぎると、キルワの勢いは落ちていく。王位をめぐる争いや、ソファラの金の流れの変化が原因と考えられている。それでも15世紀の末まで、キルワはスワヒリ海岸の有力な港の一つだった。
その繁栄を断ち切ったのは、喜望峰を回ってきたポルトガル人である。1498年にインド航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマ(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)は、1502年の二度目の航海でキルワに立ち寄り、スルタンに貢納を約束させた。1505年にはフランシスコ・デ・アルメイダの艦隊が町を攻め、略奪し、砦を築いた。ポルトガルの狙いは、金の交易を自分の手に握ることだった。だが町の商人たちは逃げ散り、交易は細って、ポルトガルも数年でキルワを手放した。インド洋で、港を武力で押さえて交易を支配する時代が始まっていた(ポルトガル帝国)。

キルワはその後、18世紀から19世紀にかけてオマーンの支配の下で、奴隷の積み出し港として一時ふたたび栄えた。しかし中心は対岸の本土の町へ移り、島の石の建物は崩れ、森に覆われていった。1981年、キルワ・キシワニと近くのソンゴ・ムナラの遺跡は世界遺産に登録されている。
キルワの銅貨は、思わぬ場所からも見つかっている。1944年、オーストラリア北部の沖の島で、キルワの銅貨数枚がオランダの古い硬貨とともに見つかった。この硬貨がどういう経路でそこへ届いたのかは分かっておらず、さまざまな説があるが、どれも確かめられていない。
キルワとその仲間の港市は、大きな領土を持つ国ではなかった。それぞれの町が独自の王を戴き、海の向こうと結びついて栄えた。スワヒリ語は、そうした港で人々が取引し、暮らし、祈る中で、バントゥー語の骨組みにアラビア語などの語彙を取り込んで育った。今では東アフリカで1億人を超える人々が使う言葉になっている。