できごと

アジア通貨危機

The Asian Financial Crisis
AD1997年
重要度 4
アジア通貨危機に関わる図版:Asienkrise-accessible
Asienkrise-accessible Wikimedia Commons Original: Max Roser, Low vision version: Angkun-ane · CC BY 4.0

概要

タイのバーツの暴落から、数か月で東南アジア全域と韓国へ広がった。短期の外国資金が一斉に引き揚げた。IMFの処方箋が事態を悪化させたという批判が、いまも残る。

場所

バンコク
13.76°N 100.50°E · タイ

本文

1997年7月2日、タイの政府は、自国の通貨バーツをドルに結びつけておく仕組みをやめ、相場を市場にまかせると発表した。バーツは一日で15%ほど下がり、その後も下がり続けた。この日から、危機が東アジアの各地へ広がっていった。

それまでの10年、東南アジアと韓国の経済は、世界でも目立つ速さで伸びていた。プラザ合意で円が高くなると、日本の企業は工場をアジアの国々へ移し、外国から資金が流れ込んだ。「東アジアの奇跡」と呼ばれた。

1998年5月14日、ジャカルタの暴動
1998年5月14日、ジャカルタの暴動Wikimedia Commons Office of the Vice President The Republic of Indonesia · Public domain

だが、その成長には弱いところがあった。タイの銀行や企業は、ドル建てで安い金利のお金を外国から借り、国内の不動産や株に貸し込んでいた。それも、数か月から1年で返す短い借金が多かった。通貨がドルにほぼ固定されていたので、ドルで借りても為替の心配は無いと思われていた。バンコクには高層ビルが次々に建ち、空き部屋が増えていった。

1996年ごろから輸出が伸び悩み、不動産の値が下がりはじめた。外国の投資家は、バーツがいつまでも今の値を保てるのかを疑い、投機的な売りを浴びせた。タイの中央銀行は、手持ちのドルを使ってバーツを買い支えたが、ついにドルが尽きた。

米ドルとタイバーツの為替レートの推移を示すグラフ
米ドルとタイバーツの為替レートの推移を示すグラフWikimedia Commons Wikideas1 · CC0

通貨が下がると、ドルで借りたお金の返済額は、自国の通貨で見て一気に膨らむ。企業や銀行は返せなくなり、外国の貸し手は一斉にお金を引き揚げた。引き揚げが通貨をさらに下げ、さらなる引き揚げを呼ぶ。同じ弱さを抱えているとみられた国々にも、売りが広がった。フィリピン、マレーシア、インドネシア、そして11月には韓国へ。

最も深い傷を負ったのはインドネシアだった。通貨ルピアは、1年ほどで8割ほど値を失った。輸入品の値が跳ね上がり、食べ物や燃料が手に入りにくくなった。1998年5月、各地で暴動が起き、華人の商店などが襲われた。32年にわたって国を治めてきたスハルトは、5月21日に辞任した(スハルトの退陣)。

米ドルと韓国ウォンの為替レートの推移を示すグラフ
米ドルと韓国ウォンの為替レートの推移を示すグラフWikimedia Commons Wikideas1 · CC0

韓国では、財閥と呼ばれる巨大な企業グループが、借金を重ねて事業を広げていた。1997年に入って大企業の倒産が相次ぎ、年末には外貨が底をつきかけた。韓国は国際通貨基金(IMF)に支援を求め、総額で580億ドル近い救済の枠が組まれた。当時としては史上最大だった。危機のさなかの12月、大統領選挙で金大中が当選した。翌年にかけて、国民が家にある金の指輪や首飾りを持ち寄り、国の借金の返済に役立てようとする運動が広がった。

IMFはタイ、インドネシア、韓国に資金を貸したが、その条件として、政府の支出を減らすこと、金利を大きく上げること、弱った銀行や企業を整理すること、市場をさらに開くことを求めた。中南米の財政危機に使ってきた処方箋だった。

米ドルとフィリピンペソの為替レートの推移を示すグラフ
米ドルとフィリピンペソの為替レートの推移を示すグラフWikimedia Commons Wikideas1 · CC0

この処方箋は、強い批判を浴びた。アジアの危機の原因は政府の浪費ではなく民間の借金だったのに、緊縮と高金利を押しつけて景気をさらに冷やし、倒産と失業を増やした、と。インドネシアでは、銀行を急に閉じさせたことが、預金の取り付け騒ぎを招いたとされる。世界銀行の首席エコノミストだったスティグリッツらが、こうした批判の先頭に立った。IMFの側は、市場の信頼を取り戻すには必要だったと反論した。その後、IMF自身もいくつかの判断に誤りがあったことを認めている。

マレーシアのマハティール首相は、IMFの支援を断った。1998年9月、外国への資金の持ち出しを制限し、通貨をドルに固定した。当時は無謀だと批判されたが、他の国より大きく悪くはならず、後にこの選択を評価する見方も出た。危機は1998年の夏にはロシアにも飛び火し、ロシアは借金の支払いを止めた。

米ドルとインドネシアルピアの為替レートの推移を示すグラフ
米ドルとインドネシアルピアの為替レートの推移を示すグラフWikimedia Commons Wikideas1 · CC0

1999年に入ると、多くの国が回復に向かった。だが、失われたものは大きかった。何千万もの人が貧しい暮らしに押し戻され、韓国では一生同じ会社で働くという前提が崩れた。

この危機から、アジアの国々は一つの教訓を引き出した。いざというとき頼れるのは、自分で持っている外貨だけだ、と。各国は輸出で得たドルを、使わずに積み上げるようになった。2000年には、日本と中国、韓国、東南アジアの国々が、危機のときに外貨を融通し合う取り決めを結んだ。二度と同じ目に遭わないため、という説明がされる。アジアの国々が積み上げたドルは、アメリカの国債に流れ込み、10年後の世界金融危機の遠い背景の一つになったとも言われる。

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