メソポタミアの徳政令
概要
王が代わるたび、農民の借金を帳消しにし、質に取られた家族を家へ返した。借金で社会が壊れることを、当時の王はよく知っていた。
場所
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県
本文
メソポタミアの都市では、古くから貸し借りが盛んだった。神殿や宮殿、豊かな商人が、農民に大麦や銀を貸す。利子は高く、大麦ならおよそ3割、銀なら2割ほどが普通だった。凶作の年に借りた農民は、収穫で返しきれなければ、さらに借りるしかない。やがて畑が借金のかたに取られ、それでも足りなければ、妻や子が債権者の家に質として連れて行かれ、働かされた。最後には本人も債務の奴隷になる。
シュメールの王が即位すると、しばしばこうした借金を帳消しにする布告を出した。農民の借金を消し、質に取られていた妻や子を家へ帰し、借金のかたに取られた土地を元の持ち主へ戻す。記録に残る古い例に、前25世紀のラガシュの王エンメテナや、前24世紀の同じラガシュのウルカギナの碑文がある。ウルカギナの改革の碑文には、「アマルギ」という語が出てくる。母のもとへ帰る、という意味で、債務から解かれた人が家へ帰ることを指した。人類が文字に残した最も古い「自由」の語だとも言われる。
この習慣は、その後もメソポタミアの王たちに受け継がれた。アッカド語では、王が国に「正義(ミーシャルム)」を打ち立てる、と表現された。ハンムラビも、治世の中で何度かこの布告を出している。ハンムラビ法典には、借金のために妻や子を人に渡した場合、3年働けば4年目に自由にせよという条文もある。さらに後の前17世紀、バビロンの王アンミ・ツァドゥカの布告は、写しがほぼ丸ごと残っていて、中身を細かく知ることができる。
その布告を読むと、帳消しの範囲がよく考えられていたことが分かる。消されるのは、暮らしのために農民が借りた大麦や銀の借金と、未払いの税だった。一方、商人が商売のために貸し借りした分は、帳消しにならない。商いを止めずに、農民の暮らしだけを救う仕組みになっていた。布告を見越して、貸し手が借用書の日付をごまかすことも禁じられている。
なぜ王たちは、そうしたのか。借金が膨らむと、農民は畑を捨てて逃げる。逃げた先は、草原の遊牧民のところか、王の敵の国になる。そうなれば、税を納める者と、兵になる者が同時に消える。豊かな債権者だけが土地と人を抱え込み、王に匹敵する力を持つようになる。王にとって借金の帳消しは、慈悲であると同時に、国を保つための統治の技術だった。布告は粘土板に書き写されて各地に伝えられた。新しい王の即位のときに出されることが多かったのも、民の支持を得て治世を始めるためだったと考えられる。
この習慣の名残は、ほかの土地にも見られる。ヘブライ語聖書には、7年ごとに借金を免除する安息の年と、50年ごとに奴隷を解放し、売られた土地を元の家に戻す「ヨベルの年」の定めがある。これも、この地域の古い慣行を受け継いだものと考えられている。ヨベルの年が実際にどこまで守られたかは分からない。
日本の中世にも、借金の帳消しを命じる徳政令があった。1297年の永仁の徳政令は、困窮した御家人が売ったり質に入れたりした土地を、取り戻させようとした。メソポタミアの布告をこの名で呼ぶのは、その日本の言葉を当てたものになる。遠く離れた二つの社会が、借金で人と土地が失われるという同じ問題に、似た答えを出していた。
デヴィッド・グレーバーの『負債論』は、こうした借金の帳消しを、本の土台の一つに置いた(物語「『負債論』で読む歴史」)。借りたものは必ず返さなければならない、という考えは、人類の歴史の中ではむしろ新しい、という筋になる。古代の王たちは、借金をそのままにしておけば社会が壊れることを知っていた。20世紀の終わりには、貧しい国々の対外債務を帳消しにしようとする運動が起き、その名も聖書のヨベルの年から取られた(債務を帳消しにする運動)。