できごと

ドンソンの銅鼓

Dong Son drum
BC6世紀頃(BC10〜BC1世紀)
年に諸説あり重要度 3
原アルタイ系の牧畜民カラスク文化チベット系諸集団イラン系の牧畜民ヴェーダ期のアーリヤ人オーストロアジア系の稲作民中華系の人びとZhoaオーストロネシア系の人びとドラヴィダ系の人びとビルマ系の人びとPapuan neolithic farmers縄文後期Wuアイヌ朝鮮半島の先住集団BC6世紀頃(BC10〜BC1世紀)ドンソン
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概要

紅河の流域で作られた大きな銅の太鼓が、インドネシアの島々まで運ばれている。東南アジアが海でつながっていたことが、鋳物の分布から分かる。

場所

ドンソン
19.80°N 105.78°E · ベトナム・タインホア省

本文

1924年、ベトナム北部のタインホア省、マー川のほとりのドンソンという村で、川岸が崩れて青銅器が現れた。地元の人が拾ったものを手がかりに、フランス極東学院が発掘を進め、斧や短剣、容器、そして大きな青銅の太鼓が次々に見つかった。この村の名から、紅河とマー川の流域に広がった青銅器の文化は「ドンソン文化」と呼ばれるようになった。年代はおよそ紀元前1千年紀の中ごろから紀元1世紀ごろまでとされ、始まりの時期については研究者の間で幅がある。

ドンソン文化を代表するのが銅鼓である。胴がふくらみ、腰がくびれ、裾が広がった形で、上面の平らな鼓面を打って鳴らす。底は抜けている。大きなものは高さが60センチから1メートル近くになる。19世紀末にベトナム北部で見つかったゴックルーの銅鼓は、その代表として知られる。オーストリアの研究者ヘーガーが1902年に銅鼓を4つの型に分けたとき、最も古く、最も見事な型として「ヘーガー1式」と名付けたのがこの種類である。

ソン・ダー出土の銅鼓。ドンソンII文化、紀元前1千年紀中頃
ソン・ダー出土の銅鼓。ドンソンII文化、紀元前1千年紀中頃Wikimedia Commons Public domain

鼓面の中心には、光を放つ星か太陽のような紋が鋳出され、その周りを何重もの輪が取り巻く。輪の中には、くちばしの長い鳥が飛び、羽根飾りをかぶった人々が列を作って踊り、杵で臼をつき、高床の家が並ぶ。胴には、羽根飾りの戦士を乗せた細長い舟がいくつも描かれている。川と海の上を行き来し、稲を育て、鳥を祀った人々の暮らしと祭りが、青銅の上に残された。後の時代の銅鼓には、鼓面の縁に立体のカエルの像が付けられるようになる。カエルは雨を呼ぶものとされ、銅鼓が雨乞いの儀礼に使われたことを示すと考えられている。

大きな銅鼓を一つ鋳るには、多くの銅と錫と鉛を集め、高い温度を保つ炉を築き、薄く均一な胴を流し込む技術が要る。どのような鋳型を使ったのかについては、蝋型を使ったとする説と、組み合わせの鋳型を使ったとする説があり、議論が続いている。いずれにせよ、銅鼓は誰もが持てるものではなかった。首長の墓に納められ、祭りで打ち鳴らされ、戦の合図に使われ、ときには財宝として受け渡された。銅鼓は音を出す楽器であると同時に、持ち主の力を示すしるしだった。

驚くべきはその分布である。ヘーガー1式の銅鼓は、ベトナム北部だけでなく、中国の雲南・広西、ラオス、タイ、カンボジア、マレー半島、さらにインドネシアのスマトラ、ジャワ、バリ、そして東のヌサ・トゥンガラやマルク諸島の島々からも見つかっている。紅河の流域で作られたとみられるものが、何千キロもの海を越えて運ばれたことになる。東南アジアの島々の首長たちが、遠い大陸の工房の品を求めて手に入れていた。島々ではやがて自分たちでも鋳るようになり、バリ島のペジェンには、高さ1.8メートルを超える土地独自の型の巨大な銅鼓が「ペジェンの月」と呼ばれて寺に祀られている。

この広がりは、東南アジアがインドの文化や中国の帝国の影響を強く受ける前から、川と海の道でひとつながりだったことを物語る。米、塩、香料、金属、そしてこうした威信の品が、舟で行き来していた。紀元後の早い時期に、メコンの下流に港市国家の扶南が栄えるのも、こうした海の道の上でのことだった(扶南の港市)。

どこで銅鼓が生まれたのかについては、意見が分かれている。中国の研究者の多くは、雲南の遺跡から出る素朴な形の銅鼓がより古く、そこから南へ広がったと考える。ベトナムの研究者の多くは、ドンソン文化の中で独自に生まれ、完成されたと主張する。銅鼓は両国の古代の誇りと結びついているため、この議論にはいくらか国の思いも入り込んでいる。雲南の滇の王国の遺跡からも、見事な銅鼓や、銅鼓の形をした貯貝器が出ている。

紀元前111年、漢の武帝が南越を滅ぼすと(南越の征服)、紅河の流域は漢の郡に組み込まれた。紀元40年、徴姉妹が漢の支配に反旗を翻すと(徴姉妹の蜂起)、討伐に送られた漢の将軍馬援は、乱を鎮めたあと、土地の人々の銅鼓を集めて溶かし、銅の馬の像を作ったと『後漢書』は伝える。銅鼓が土地の首長たちの力の象徴だったからこそ、征服者はそれを奪った。

それでも銅鼓は消えなかった。中国南部やベトナム、ラオスの山地に住む人々の間では、銅鼓を打ち鳴らす祭りが近年まで、所によってはいまも続いている。ベトナムでは、ドンソンの銅鼓は伝説の雄王の時代、民族の始まりの象徴とされ、ハノイの国立歴史博物館でも代表的な展示品になっている。鼓面の星と鳥の紋様は、記念碑や公の建物など、さまざまな意匠に繰り返し使われてきた。

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