ドゥームズデイ・ブックの水車
概要
ウィリアム征服王の土地台帳は、イングランドに5624の水車を数えた。50世帯に1つ。穀物を挽く。ローマの技術(ウィトルウィウス)が、中世に村ごとに広がった。領主は水車を独占して、農民に使用料を取った(「バナリテ」)。12世紀から、縮絨(毛織物)、鍛冶のハンマー、製材、製紙、鉱山の排水。ヨーロッパは、水の力で、機械の文明になった。
場所
51.06°N -1.31°E · イギリス・イングランド
本文
水の流れで車輪を回し、その力で石臼を回す仕掛けは、古代の地中海世界で生まれた。紀元前1世紀、ローマの建築家ウィトルウィウスは『建築十書』(ウィトルウィウス『建築十書』)の中で、流れに浸けた羽根車の回転を歯車で直角に曲げ、石臼を回す水車を説明している。同じころのギリシアの詩人アンティパトロスは、粉挽きの娘たちに、もう手を休めて眠れ、水の精が臼を回してくれる、とうたった。南フランスのアルルに近いバルベガルには、2世紀に丘の斜面に16の水車を階段のように連ねた大きな粉挽き場が造られていた。だが古代には、奴隷や家の女たちの手で粉を挽く習慣が根強く、水車は都市の近くや軍の施設などに限られ、農村の隅々までは広がらなかった。
水車が本当に広がるのは中世である。6世紀のガリアの記録には修道院が川に水車を設けた話が現れ、9世紀のカール大帝の所領の台帳や、修道院の財産目録にも水車が載るようになる。修道院と領主たちは、川に堰を築き、水路を引いて、村ごとに水車を建てていった。10世紀以後、記録に現れる水車の数は目に見えて増える。
その広がりを一つの国についてまとめて数えられるのが、イングランドのドゥームズデイ・ブック(ドゥームズデイ・ブック)である。1066年のヘイスティングズの戦いでイングランドを征服したノルマンディー公ウィリアム1世は、20年後の1085年の暮れ、国じゅうに調査官を送り、州ごと、村ごとに、誰がどれだけの土地を持ち、そこに何人の農民がいて、牛や鋤や森や牧草地や水車がいくつあり、その価値がいくらかを、征服の前と今について書き上げさせた。調査が逃れようのない厳しさだったため、人々はこれを最後の審判の日(ドゥームズデイ)の帳簿にたとえた。台帳に載る地名は1万3000あまり。ロンドンとウィンチェスター、北部のいくつかの州は載っていない。

台帳には水車が5624基数えられている。どれを一つと数えるかで研究者によって5000から6000ほどまで幅があるが、およそ3000の村に水車があり、50世帯ほどに1基の割合になる。川の多い南部と東部に多く、一つの村に何基も並ぶ所もあった。水車の価値は年に数シリングから数ポンドで記され、ウナギで納めると書かれた水車もある。水車の堰はウナギを捕る仕掛けを兼ねていたのである。そのほとんどは穀物を挽く水車だった。毎日何時間も手臼を回して家族の粉を挽く仕事は、主に女の仕事だったが、それが水車に移っていった。
水車は領主の財産であり、収入の道具だった。大陸ではバナリテ、イングランドでも同じような慣習で、領民は領主の水車で粉を挽くよう義務づけられ、挽いた粉の一部を使用料として取られた。家で手臼を使うことは禁じられた。1331年、セント・オールバンズ修道院の院長は、町の人々の手臼を取り上げ、修道院の部屋の床に敷き詰めた。50年後の1381年の農民反乱(ワット・タイラーの乱)で、人々は修道院に押し入ってその床石を剥がし、かけらを分け合って持ち帰ったという。粉屋は粉を掠め取る者として嫌われ、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』に登場する粉屋も、目方をごまかす男として描かれている。

12世紀から13世紀にかけて、水車の用途は粉挽きの外へ広がった。回転を往復の動きに変えるカムの仕掛けを使えば、木槌を上げ下げさせることができる。毛織物を水と粘土の中で叩いて目を詰める縮絨の水車は、イングランドでは12世紀の末に記録に現れ、毛織物の産地は、流れの速い川のある丘陵地へ移っていった。歴史家カルス=ウィルソンは、これを「13世紀の産業革命」と呼んだ。鉄を鍛えるハンマー、炉に風を送る鞴、木材を挽く鋸、紙の原料をつく杵、皮なめし、鉱山の排水と巻き上げ、麦芽の粉砕、刃物の研ぎにも、水の力が使われた。同じ12世紀の末には、水の乏しい平地で風車も現れる(ヨーロッパの風車)。
中世のヨーロッパは、人や家畜の筋肉に代わる力を、川の流れから引き出す仕組みを村ごとに持つ社会になった。18世紀の終わりに蒸気機関が普及するまで、水車はヨーロッパの機械を動かす第一の動力であり続けた。リチャード・アークライトが1771年にイングランド中部のクロムフォードに建てた紡績工場も、川の水車で機械を回していた。産業革命の最初の工場は、ドゥームズデイ・ブックの水車の、遠い子孫だったのである。