ソンガイ帝国の最盛期
概要
西アフリカ最大の帝国。トンブクトゥの学院には各地から学者が集まった。
場所
16.27°N -0.04°E · マリ
関わった人(1)
ソンニ・アリ?–AD1492年 · 版図を広げた王本文
西アフリカのニジェール川は、ギニアの山地から北東へ流れてサハラの縁まで上り、大きく弧を描いて南へ折れ、ギニア湾に注ぐ。その北に張り出した大湾曲部は、砂漠を越えてくる隊商と、川を行き来する舟が出会う場所だった。北からは岩塩と馬と布と本が、南からは金と奴隷と象牙が運ばれた。この交易を押さえた国が、ガーナ、マリ(マリ帝国の成立)、そしてソンガイと、何世紀にもわたって入れ替わり興ってきた。
ソンガイ人は川の中流、ガオの町を中心に暮らす人々で、14世紀にはマリ帝国に服していた。マリが王位争いと周辺からの圧迫で弱まると、15世紀の後半、ソンガイの王ソンニ・アリが一気に版図を広げた。1468年にトンブクトゥを、その後には川の上流の商業都市ジェンネを手に入れ、川に舟の艦隊を浮かべて兵を運び、周辺の勢力を次々に従わせた。ソンニ・アリは戦の天才として恐れられた一方、在来の信仰を重んじたため、トンブクトゥのイスラームの学者たちとはぶつかり、彼らの書いた年代記では残酷な暴君として描かれている。

1492年にソンニ・アリが死ぬと、翌年、将軍のムハンマド・トゥーレが王の息子を倒して位を奪った。これがアスキア・ムハンマドで、彼の王朝はアスキア朝と呼ばれる(アスキア・ムハンマドのソンガイ)。アスキア・ムハンマドは熱心なムスリムで、即位まもなくメッカへ巡礼し、カイロやメッカの権威から西アフリカのイスラームの指導者としての称号を受けて戻った。帝国を州に分けて総督を置き、常備の軍を整え、度量衡をそろえ、イスラームの法に通じた裁判官を各地に置いた。この時代、ソンガイの版図は西はセネガル川の上流から東はいまのナイジェリア北部の辺りまで、北はサハラの塩の産地にまで及び、西アフリカの歴史で最大の国の一つになった。
帝国の繁栄を最もよく示すのが、トンブクトゥの学問である。町には、サンコーレ、ジンガリベリ、シディ・ヤヒヤといったモスクがあり、その周りに学者たちが家ごとに弟子を集めて教えた。決まった大学の建物があったわけではないが、北アフリカやエジプトからも学者が訪れ、コーランの読み方、イスラーム法、文法、論理学、天文学、医学が学ばれた。16世紀の初めにこの町を訪れた、北アフリカのフェスで育った旅行家レオ・アフリカヌスは、ここでは本の商売がほかのどの品よりも儲かる、と書いている。家ごとに写本を集めた文庫があり、学者アフマド・バーバーは自分の蔵書が千六百冊あったと書き残している。
16世紀の後半になると、帝国の内側がきしみ始める。アスキア・ムハンマドは晩年、目が見えなくなり、息子たちに位を追われた。その後も王族どうしの争いが続いた。一方、北では、サハラの向こうのモロッコが力をつけていた。1578年、ポルトガル軍を破ったモロッコのスルタン、アフマド・マンスールは、サハラの塩の産地とソンガイの金を狙った。
1590年、マンスールはスペイン出身の改宗者ジュデルを将として、数千の兵をサハラ越えに送り出した。その多くが火縄銃を持つ兵だった。砂漠の行軍は数か月かかり、多くの兵と駄獣が途中で倒れた。それでも1591年3月、ガオの近くのトンディビで、数ではるかにまさるソンガイの騎兵と弓兵、槍兵の軍を、銃と大砲で打ち破った。ソンガイの王はガオを捨てて逃げ、モロッコ軍はガオとトンブクトゥを占領した。
トンブクトゥの学者たちは、反抗を企てたとして捕らえられ、アフマド・バーバーも鎖につながれてマラケシュへ送られた。モロッコの支配は長続きせず、残った兵の子孫が地元の支配者として居残ったが、広い地域をまとめる国はこの地に二度と現れなかった。ソンガイの王族の一部は南に逃れて小さな国を保った。交易の流れも、大西洋の沿岸にヨーロッパ人が来たことで、砂漠から海へと向きを変えつつあった。
トンブクトゥの写本は、その後も家々で受け継がれ、何十万点も残っているとされる。2012年に武装勢力が町を占拠したとき、住民や図書館員が写本を米袋や金属の箱に詰めて、ひそかに南の首都バマコへ運び出した。研究所に残された写本の一部は焼かれたが、多くは守られた。西アフリカにも、本を書き、売り、読み、守る長い伝統があったことを、それらの写本が示している。