エジソンの白熱電球
概要
メンローパークの「発明工場」で、炭化した木綿糸のフィラメントが13時間半光った。翌年、京都の八幡の竹で1000時間以上。電球より重要だったのは、発電所と、配電網と、メーターと、スイッチと、料金の仕組みを、まとめて作ったこと。1882年、ニューヨークのパール街発電所。「私は失敗していない。うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ」。
場所
40.55°N -74.33°E · アメリカ・ニュージャージー州
関わった人(1)
トーマス・エジソンAD1847年2月11日–AD1931年10月18日 · 光らせた本文
電気で光を作ること自体は、エジソンより70年以上前からできていた。1800年にヴォルタが電池を作ると(電池)、まもなくイギリスのハンフリー・デーヴィーが、電流で白金の細い板を光らせ、炭素の棒の間に火花を飛ばすまばゆいアーク灯を見せた。だがアーク灯は明るすぎ、家の中では使えない。細い線に電流を通して熱し、光らせる白熱電球は、19世紀の半ばから多くの発明家が挑んだが、線がすぐに燃え尽きてしまった。イギリスのジョゼフ・スワンは、1870年代の終わりに炭素を使った電球を公開し、エジソンとほぼ同じ頃に実用化にこぎつけている。
エジソン(トーマス・エジソン)が抱えた課題は、三つあった。電球の中をできるだけ真空にして、線が燃えないようにすること。電流を通しても長く持ち、しかも電気をよく食わない、抵抗の大きな線の材料を見つけること。そして、何よりも大きな課題、電球を家々に灯すための、電気を作り、送り、料金を取る仕組みを作ることである。

エジソンは、当時の都会の明かりだったガス灯の事業を研究していた。ガス会社は、工場でガスを作り、道の下に管を引き、各家にメーターを付けて、使った分だけ料金を取る。同じことを電気でやればよい。彼が目指したのは、一つの電球ではなく、電灯の事業そのものだった。そのため、一つが消えてもほかが消えないように電球を並べてつなぎ、送る電流を小さくして高価な銅線を細くできるように、抵抗の大きなフィラメントを求めた。
エジソンには、そのための場所があった。1876年、ニュージャージー州のメンローパークに建てた研究所である。機械工、ガラス職人、化学者、数学者を集め、工作機械と薬品と書物を揃えて、発明を組織の仕事として行う。10日ごとに小さな発明を、半年ごとに大きな発明を、と彼は言ったという。1877年にはここで蓄音機が生まれている(蓄音機の発明)。

1878年の秋から、メンローパークの人々はフィラメントの材料を探して、白金をはじめとする金属から、さまざまな炭素の材料まで、片端から試していった。1879年10月21日から22日にかけて、炭にした木綿の縫い糸のフィラメントが、13時間あまり光り続けた。研究所の記録の読み方によっては、もっと長く光ったとする見方もある。私は失敗したのではない、うまくいかない方法を1万通り見つけたのだ、という有名な言葉もエジソンのものとして伝わるが、これは後に語られた形で、数字も誇張である。その年の大晦日、メンローパークの研究所と通りは数百の電球で照らされ、汽車で見物に詰めかけた人々を驚かせた。翌1880年1月、電球の特許が認められた。
その後も、より長く持つ材料の探索は続いた。エジソンは世界各地に人を送って植物の繊維を集めさせ、竹が良いことを突き止める。中でも、京都の石清水八幡宮の周辺の竹から作ったフィラメントは、千時間を超えて光った。1880年代を通じて、八幡の竹はエジソンの電球に使われ続け、いまも八幡にはエジソンを記念する碑がある。竹のフィラメントは1890年代に人工の繊維に替わり、20世紀の初めにはタングステンの線が使われるようになった。

電球と並んで、エジソンの会社は、発電機、地下に埋める配線、ヒューズ、ソケット、スイッチ、使った電気の量を測るメーターまで、一揃いを作り上げた。1882年9月4日、ニューヨークのマンハッタンの南端、パール街に発電所が動き始め、まわりの一角の家や事務所に電気を送った。最初の日に明かりが灯ったのは数十軒、電球は数百個だったが、利用者はみるみる増えていった。電気を売る事業が、ここから始まった。
だが、エジソンの方式には弱点があった。直流で電気を送ったため、電圧を変えることができず、発電所から遠くへは送れなかった。ウェスティングハウスとニコラ・テスラが推した交流は、変圧器で電圧を上げて遠くまで送り、家の手前で下げることができた。エジソンは交流の危険を盛んに宣伝したが、勝負は交流に傾いていく(電流戦争)。1892年、エジソンの電灯会社は合併してゼネラル・エレクトリックとなり、社名からエジソンの名は消えた。

日本で初めて電灯がともったのは、1878年3月25日、東京の工部大学校でアーク灯が灯されたときとされ、この日はいま電気記念日になっている。1880年代の後半には東京で電灯会社が電気を送り始め、明治の町に白熱電球の明かりが広がっていった。
エジソンの電球は、夜の長さを変えた。工場は夜も動き、人々は日が暮れてからも働き、本を読み、町へ出かけるようになった。そして、電気を家に届ける網が張りめぐらされると、その上にアイロン、扇風機、洗濯機(電気洗濯機)と、電気で動く道具が次々に載っていく。メンローパークが示した、多くの専門家を集めて計画的に発明を生む研究所の形も、のちの大企業の研究所に受け継がれた。20世紀の発明は、天才のひらめきだけでなく、組織の仕事になっていった。