ローマ帝国の最大版図
概要
版図がここで頂点に達した。以後の皇帝は広げるのではなく守る側に回る。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(2)
トラヤヌス53年9月18日–117年8月8日 · 当人ハドリアヌス76年1月24日–138年7月10日 · 守りへ転じた本文
トラヤヌスは紀元53年、ヒスパニアの南部、イタリカの町に生まれた。祖先はイタリアから移り住んだローマ人で、父は元老院議員として属州の総督まで務めた。トラヤヌス自身も軍人として各地を転戦し、上ゲルマニアの総督だった97年、子のない老皇帝ネルウァの養子に迎えられた。翌98年、ネルウァが死ぬと帝位を継ぐ。イタリアの外の属州で生まれた、最初のローマ皇帝である。
トラヤヌスがまず向かったのは、ドナウ川の北のダキア、いまのルーマニアだった。ダキア王デケバルスは、前の皇帝ドミティアヌスの時代にローマ軍を破り、毎年の補助金を受け取る約束を取りつけていた。トラヤヌスは101年から102年、105年から106年の二度の戦争でダキアを攻め(ダキア戦争)、ドナウ川に巨大な石の橋を架けて軍を渡した。デケバルスは追い詰められて自害し、ダキアは属州になった。

ダキアの金と銀の鉱山、そして莫大な戦利品は、ローマを潤した。勝利を祝う見世物は123日間続いたと伝えられる。トラヤヌスはその富で、ローマの中心に新しい広場と、何層にもなる市場の建物を造らせた。広場に立てられた記念柱には、ダキア戦争の場面が螺旋状の帯になって刻まれ、2500を超える人物が描かれている。行軍、橋を架ける兵士、攻城、捕虜、そしてデケバルスの最期。ローマ兵の装備や戦い方を知る上で、いまも欠かせない史料である。
同じ106年、トラヤヌスはアラビア半島の北西にあったナバテア王国を併合し、アラビア属州とした。内政では、イタリアの貧しい家の子どもを養う基金を設け、道路や港を整えた。元老院との関係を大切にし、114年には「最善の元首」という称号を贈られた。後の時代、元老院は新しい皇帝を迎えるたびに、アウグストゥスより幸運に、トラヤヌスより善良に、と祈ったと伝えられる。

114年、トラヤヌスは東方へ向かった。宿敵パルティアが、ローマの影響下にあったアルメニアの王位に自分たちの側の人物を据えたことが発端である。トラヤヌスはアルメニアを属州とし、さらに南へ進んで、メソポタミアを征服した。116年にはパルティアの都クテシフォンを落とし、チグリス川を下ってペルシア湾に達した。歴史家カッシウス・ディオは、トラヤヌスがインドへ向かう船を見送り、自分がもっと若ければアレクサンドロス3世のようにインドまで行っただろうに、と語ったと記している。60歳を過ぎていた。
この時、ローマ帝国の版図は最大に達した。西はブリテン島から大西洋岸のヒスパニア、南は北アフリカとエジプト、東はメソポタミアとペルシア湾まで。面積はおよそ500万平方キロに及んだとされる。

だが、その頂点は長く続かなかった。征服したばかりのメソポタミアの町々が反乱を起こし、キュレネ、エジプト、キプロスでは、各地のユダヤ人が大規模な反乱に立ち上がった。トラヤヌスは鎮圧に追われるうちに病に倒れ、ローマへ帰る途中、117年8月、小アジア南岸のセリヌスで没した。63歳だった。
死の床でトラヤヌスが、遠縁にあたるハドリアヌスを養子にしたと、皇后プロティナが伝えた。本当にトラヤヌスの意思だったのかを疑う声は、当時からあった。帝位を継いだハドリアヌスは、すぐにメソポタミアとアッシリアの属州を放棄し、アルメニアも従属する王国に戻して、国境をユーフラテス川まで下げた。広げた土地を守りきるだけの兵と資金は無い、という判断である。この決定は、トラヤヌスの栄光を汚すものとして、一部の元老院議員の強い反感を買った。

ハドリアヌスは治世の多くを帝国の各地を巡ることに費やし、国境に防壁を築き、軍の規律を引き締めた。ブリテン島に築かれたハドリアヌスの長城はその象徴である。ローマはこれ以後、領土を広げるより、守ることに力を注ぐようになった。
トラヤヌスに始まり、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続く時代は、のちに五賢帝の時代と呼ばれ、帝国の最も安定した時期とされる。だが国境の外の圧力は、少しずつ強まっていた。トラヤヌスが征服したダキアも、3世紀の危機の中で270年代に放棄される。最大の版図は、ローマがもはやそれ以上広がれない限界を示した線でもあった。