ハンニバル・バルカ
概要
カルタゴの将軍。アルプスを越えてイタリアに侵入し、カンナエでローマ軍を殲滅した。
別名
ハンニバル
所属
カルタゴ関わったできごと(7)
サグントゥム攻囲BC219年 · カルタゴ側 · 総指揮ハンニバルのアルプス越えBC218年秋 · カルタゴ側 · 総指揮トレビアの戦いBC218年12月 · カルタゴ側 · 総指揮トラシメヌス湖の戦いBC217年6月21日 · カルタゴ側 · 総指揮カンナエの戦いBC216年8月2日 · カルタゴ側 · 総指揮ザマの戦いBC202年 · カルタゴ側 · 総指揮ハンニバルの死BC183年(一説にBC181年) · 当人本文
紀元前247年、北アフリカの港町カルタゴに生まれた。父は将軍のハミルカル・バルカである。カルタゴはフェニキア人が建てた海の交易国家で、地中海の西半分の覇権をめぐってローマと争っていた。ハンニバルが生まれたのは、シチリアをめぐる第一次ポエニ戦争の末期にあたる。紀元前241年、カルタゴは敗れ、シチリアを失い、重い賠償金を負った。

父ハミルカルは、失ったものを取り戻すため、紀元前237年、スペインへ渡って新しい領土を切り開いた。9歳のハンニバルは、連れて行ってほしいと父にせがんだ。父は息子を祭壇の前に立たせ、決してローマの友にはならないと誓わせた。この話は、のちにハンニバル自身が亡命先の王に語ったものとして、ギリシアの歴史家ポリュビオスが伝えている。
スペインでは、銀山と現地の兵を手に入れ、カルタゴの新しい力の源ができていった。父が戦いの中で死に、跡を継いだ義兄も暗殺されると、紀元前221年、26歳のハンニバルが軍の指揮官に推された。兵とともに地面に寝て、同じものを食べ、誰よりも先に戦場に出て最後に退く人だった、とローマの歴史家リウィウスでさえ書いている。

紀元前219年、ローマと友好関係にあったスペイン東岸の町サグントゥムを8か月の包囲で落とした(サグントゥム攻囲)。ローマは責任者の引き渡しを求め、拒まれると宣戦した。第二次ポエニ戦争の始まりである。
ローマは海を押さえていた。ハンニバルは海ではなく陸から攻めることを選ぶ。紀元前218年の春、スペインを発ち、ピレネー山脈を越え、象を筏に乗せてローヌ川を渡った。秋の終わり、雪の降り始めたアルプスを15日ほどで越えた(ハンニバルのアルプス越え)。険しい山道、山の民の襲撃、寒さで多くの兵と馬を失い、北イタリアに着いたときには歩兵2万、騎兵6000ほどだったとポリュビオスは伝える。37頭いた象も、ほとんどがその冬のうちに死んだ。どの峠を越えたのかは、いまも決着していない。
アルプスを越えてイタリアに侵入し、カンナエでローマ軍を殲滅した。北イタリアのケルト人を味方につけ、その年の暮れにトレビア川でローマ軍を破った。翌紀元前217年の春、湿地を抜ける行軍の途中で目の病にかかり、片目の視力を失っている。それでも6月、トラシメヌス湖の北岸の霧の中で待ち伏せし、ローマ軍をほぼ全滅させた(トラシメヌス湖の戦い)。執政官も戦死した。

ローマはファビウス・マクシムスを独裁官に選んだ。ファビウスは正面からの戦いを避け、ハンニバルの軍の後をつけて補給を断つファビウスの持久戦をとった。ある時、山あいに追い詰められたハンニバルは、夜、牛の角に松明をくくりつけて山の斜面へ追い立て、ローマ軍がそちらに気を取られた隙に抜け出したという。
紀元前216年8月2日、南イタリアのカンナエで、ローマは8万を超える大軍で決戦を挑んだ(カンナエの戦い)。ハンニバルは中央の歩兵を弓なりに前へ張り出させ、押されるにまかせて後退させた。ローマの軍団が中央へ吸い込まれたところで、両翼の精鋭の歩兵が左右から挟み、敵の騎兵を追い払った騎兵が背後に回り込んだ。包囲されたローマ軍は身動きが取れず、死者は5万から7万と伝えられる。半日でこれほどの人が死んだ戦いは、歴史上ほかにほとんど無い。

だが、ハンニバルはローマの町を攻めなかった。攻城の道具も兵も足りず、海からの補給も望めなかった。騎兵隊長マハルバルは、あなたは勝つことを知っているが、勝利を使うことを知らない、と言ったとリウィウスは伝える。ハンニバルが期待したのは、ローマの同盟市が次々に離れていくことだった。南イタリアのカプアなどは寝返ったが、中部イタリアの同盟市の多くはローマに付き従い続けた。
ハンニバルはその後15年、イタリアにとどまって戦った。紀元前211年には、ローマの城門の近くまで迫り、「ハンニバルが門前に」という言葉は、のちのローマで危機を表す言い回しになった。だが紀元前207年、スペインから援軍を率いて来た弟ハスドルバルが北イタリアで敗れて戦死し、その首はハンニバルの陣へ投げ込まれた。

その間に、若いローマの将軍大スキピオがスペインのカルタゴ勢力を一掃し、紀元前204年、北アフリカへ渡った。本国を脅かされたカルタゴはハンニバルを呼び戻す。紀元前202年、カルタゴの南西のザマの戦いで、ハンニバルはスキピオと戦い、敗れた。スキピオはカンナエのハンニバルの戦い方を学び、ヌミディアの騎兵を味方につけていた。翌年、カルタゴの降伏でカルタゴは海外の領土と艦隊を失った。
戦後、ハンニバルはカルタゴの最高の役職に就き、財政を立て直し、不正を働く有力者たちの力を削いだ。賠償金は予定より早く払えるようになったという。だが政敵たちはローマに彼を告発し、ローマが引き渡しを求めると、紀元前195年、ハンニバルは東へ逃れた。

亡命先はシリアのセレウコス朝の王アンティオコス3世だった。王に対ローマ戦の助言をしたが、十分に用いられず、王はローマに敗れる。その後、クレタ島を経て、黒海に近い小アジアのビテュニア王国に身を寄せた。ビテュニアの艦隊を率いて隣国と戦ったとき、毒蛇を詰めた壺を敵の船に投げ込ませたという話も伝わる。
ローマの使者がビテュニア王に引き渡しを迫ると、ハンニバルは隠れ家を囲まれたことを知り、持ち歩いていた毒を仰いだ(ハンニバルの死)。紀元前183年とされ、一説に紀元前181年。60代の半ばだった。ローマ人を長年の不安から解放してやろう、と言い残したと伝えられる。

彼の生涯を伝えるのは、ポリュビオスやリウィウスら、敵の側の歴史家の記録である。カルタゴの側の記録は、紀元前146年のカルタゴ滅亡とともに失われた。それでもローマの歴史家たちは、この敵を恐れ、同時に称えた。カンナエの包囲は、2000年以上たったいまも、士官学校で教えられる戦いの手本になっている。