できごと

ガリア戦争

Gallic Wars
BC58年 – BC50年
期間を持つできごと重要度 5
ガリア戦争に関わる図版:Lionel Royer - Vercingetorix Throwing down His Weapons at the feet of Julius Caesar
Lionel Royer - Vercingetorix Throwing down His Weapons at the feet of Julius Caesar Wikimedia Commons Lionel Royer · Public domain

概要

カエサルによるガリア征服。8年の遠征でローマの版図と、カエサル自身の力が決定的に大きくなった。

関わった人(1)

ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · ローマ側 · 総指揮

本文

紀元前59年に執政官を務めたガイウス・ユリウス・カエサルは、翌年から属州総督としてアルプスの南北のガリアとイリュリクムを任された。第一回三頭政治でポンペイウス、クラッススと手を組んで手に入れた地位だった。カエサルには莫大な借金があり、執政官時代の強引な政治のせいで、任期が終われば政敵に訴えられる恐れもあった。軍功と富が必要だった。

当時、ローマの属州は地中海沿岸の南フランスまでで、その北にはガリア諸部族が広がっていた。数十の部族が並び立ち、部族どうしで争い、ときにライン川の東のゲルマン人を味方に引き入れていた。都市に近い集落を持ち、貨幣を使い、ローマと交易もしていた。

レヌス川を渡るローマ軍
レヌス川を渡るローマ軍Wikimedia Commons Lo Scaligero · Public domain

紀元前58年、スイスにいたヘルウェティイ族が西へ大移動を始めた。カエサルはこれを属州への脅威として阻み、続いてガリアに入り込んでいたゲルマン人の王アリオウィストゥスを破った。ガリアの部族の頼みに応える形で介入し、そのまま軍をガリアに置いた。翌年は北のベルガエ人の諸部族を下し、紀元前56年には大西洋岸のウェネティ族を海戦で破った。そのあいだもカエサルは、冬になるとアルプスの南の属州へ戻り、手紙と金を使ってローマの政界に働きかけ続けた。

紀元前55年、カエサルはライン川に10日で木の橋を架けて東岸へ渡り、力を見せつけてから引き返した。同じ年と翌年にはブリタニアへ渡った。ブリタニアを支配下に置くことはなかったが、海の向こうに軍を進めたことはローマで大きな評判になった。ブリタニアの本格的な征服は、約100年後のクラウディウスのブリタニア征服を待つことになる。

裕福なガリア戦士の装備を再現した現代の再演者(2018年)
裕福なガリア戦士の装備を再現した現代の再演者(2018年)Wikimedia Commons Jean-Pierre Bazard Jpbazard · CC BY 4.0

最大の危機は紀元前52年に来た。アルウェルニ族の若い貴族ウェルキンゲトリクスが、多くの部族をまとめて一斉に反乱を起こした。ウェルキンゲトリクスは村や畑を焼いてローマ軍の補給を断つ作戦を取り、ゲルゴウィアではカエサルを撃退した。しかしその後、アレシアの丘の町に立てこもる。カエサルは町を囲む壁と、外から来る救援軍に備える壁の、二重の包囲線を築いた。カエサル自身の記述では、内側の線はおよそ16キロ、外側の線はおよそ21キロに及んだ。救援に来たガリアの大軍を退けると、町は降伏した。アレシアの戦いである。ウェルキンゲトリクスはローマへ送られ、6年後、カエサルの凱旋式の後に処刑された。

この戦争のおもな史料は、カエサル自身が書いた『ガリア戦記』だ。全7巻で、最後の第8巻は部下のヒルティウスが書き足した。簡潔で明晰なラテン語の手本として、いまも読まれている。同時代の弁論家キケロも、飾りを取り去った文章の美しさをたたえた。同時に、自分の行動を三人称で書き、正しい戦争だったと読者に印象づける広報の文書でもある。都合の悪いことが書かれていない可能性は、いつも念頭に置く必要がある。

ユリウス・カエサルの肖像(トゥスクルム像)
ユリウス・カエサルの肖像(トゥスクルム像)Wikimedia Commons Ángel M. Felicísimo from Mérida, España · Public domain

犠牲の大きさについて、プルタルコスは、カエサルが300万人と戦い、100万人を殺し、100万人を捕虜にしたと書いている。古代の数字なのでそのまま受け取ることはできないが、規模が並外れていたことは確かだとされる。現代の研究者の中には、これを虐殺と呼ぶべきだと論じる者もいる。

ローマ軍が強かった理由は、兵の数より組織と技術にあった。カエサルは任期中に軍団の数を4個から10個以上に増やした。軍団兵は毎晩、堀と柵で囲んだ陣営を築き、橋も攻城の設備も自分たちで作った。カエサル自身は移動の速さで知られ、敵が備える前に現れることを何度も繰り返した。ガリアの部族どうしの対立も、巧みに使った。

ブリタニア上陸を描いた挿絵。第10軍団の旗手が描かれている
ブリタニア上陸を描いた挿絵。第10軍団の旗手が描かれているWikimedia Commons James William Edmund Doyle / Edmund Evans · Public domain

カエサルが得たものは領土だけではなかった。8年の戦いで鍛えられ、自分に忠誠を誓う軍団。戦利品と捕虜を売った富。ローマ市民に配り、政治家や役人に贈るための資金。そして、征服者としての名声である。

その間に、ローマ政界の均衡は崩れていた。紀元前53年、クラッススはパルティアとの戦いで戦死し、ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアもその前年に死んでいた。ポンペイウスは元老院の保守派に近づいた。元老院はカエサルに軍を手放して一市民としてローマに戻るよう求めた。戻れば訴追が待っている。紀元前49年、カエサルは軍を率いて属州の境を越えた。ルビコン渡河である。ガリア戦争は、そのまま内戦の始まりにつながった。

ルビコン渡河に関わる図版:Crossing the Rubicon
ルビコン渡河Wikimedia Commons Jacob Abbott · Public domain

征服されたガリアは、その後ローマ化が進んだ。アウグストゥスの時代に三つの属州に分けられ、ルグドゥヌム(いまのリヨン)が中心の町になった。道路が通り、都市が建ち、人々はやがてラテン語を話すようになった。そのラテン語が、のちのフランス語のもとになる。19世紀、フランスのナポレオン3世はアレシアの発掘を進めさせ、ウェルキンゲトリクスの巨大な像を建てた。征服された側の指導者が、フランスの国民の英雄として語られるようになったのである。

動画(1)

ガリア戦争 〜執政官カエサル VS 英雄ウェルキンゲトリクス〜【COTEN RADIO#149】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO征服される側の英雄にも時間を割いている

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