ザマの戦い
概要
スキピオがハンニバルを破り、第二次ポエニ戦争を決した。戦場の正確な位置は今も特定されていない。
場所
36.08°N 9.37°E · チュニジア内陸部(正確な位置は特定されていない)
関わった人(3)
大スキピオBC236年–BC183年 · ローマ側 · 総指揮ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · カルタゴ側 · 総指揮マシニッサBC238年頃–BC148年 · ヌミディア騎兵本文
紀元前203年、ハンニバル・バルカはイタリアを去った。ハンニバルのアルプス越えから15年。カンナエの戦いをはじめ大きな戦いには勝ち続けたが、ローマを屈服させることはできなかった。本国カルタゴが、ローマ軍に攻め込まれていたからである。
そのローマ軍を率いていたのが、プブリウス・コルネリウス・スキピオ、のちの大スキピオである。父と伯父はヒスパニアでカルタゴ軍と戦って戦死した。スキピオは、20代の半ばという異例の若さでヒスパニアの指揮を任され、カルタゴの拠点の新カルタゴを奇襲で落とし、紀元前206年までにヒスパニアからカルタゴの勢力を追い出した。ハンニバルの戦い方を、若いころからずっと見てきた世代の将軍だった。カンナエでも、彼はローマ軍の若い将校として戦場にいたと伝えられる。

紀元前204年、スキピオは元老院の慎重論を押し切ってシチリアからアフリカへ渡った。カンナエで敗れて生き残り、罰としてシチリアに留め置かれていた兵士たちも、その軍に加えられていたと伝わる。翌年、スキピオはカルタゴと結んでいたヌミディアの王シュファクスの陣営を夜襲で焼き払い、続く戦いでカルタゴ軍を破った。シュファクスと争っていたヌミディアのもう一人の王族マシニッサはローマ側に付き、王位を得た。カルタゴはハンニバルを呼び戻した。
戦いの前、ハンニバルとスキピオは両軍のあいだで会見したとポリュビオスもリウィウスも書いている。ハンニバルが和平を持ちかけ、スキピオが断ったという。会見が実際にあったかどうかは確かめようがないが、時代を代表する二人の将軍が顔を合わせた場面として、後世まで語り継がれた。

両軍の兵力は、それぞれ3万5000から4万前後と推定されるが、確かな数字は分からない。カルタゴ側には80頭の象がいた。ハンニバルは歩兵を三列に並べた。最前列に雇われ兵、二列目にカルタゴとアフリカで急いで集めた兵、最後列に、イタリアから連れて帰った古参の兵を置いた。
スキピオは、ローマ軍の歩兵の中隊を、ふつうのように互い違いには並べず、前後にまっすぐそろえて並べた。中隊と中隊のあいだに、縦に通る道ができる。そこに軽装の兵を置いた。戦いが始まり、象が突進してくると、ローマ軍は一斉にラッパを吹き鳴らした。驚いた象の一部は向きを変えて、自軍のカルタゴの騎兵の中へ突っ込んだ。突き進んできた象は、軽装の兵に追い立てられて縦の道を抜け、戦列の後ろへ出ていった。

続いて、両翼の騎兵どうしがぶつかった。カンナエのとき、騎兵で優っていたのはカルタゴのほうだった。ハンニバルの騎兵の主力はヌミディア人だったからである。だがザマでは、マシニッサの率いるヌミディアの騎兵がローマ側にいた。ローマの騎兵はカルタゴの騎兵を打ち破り、そのまま追って戦場を離れた。
歩兵の戦いは激しかった。ローマ軍はカルタゴの前の二列を崩したが、最後に残ったハンニバルの古参の兵はまだ無傷だった。スキピオは兵を一度整え、後ろの列の兵を左右に広げて、敵と同じ長さの戦列を作り直してから、正面からぶつかった。両軍の精鋭が押し合う中、敵を追っていたローマとヌミディアの騎兵が戦場に戻り、カルタゴ軍の背後を突いた。16年前のカンナエと同じ形で、今度はカルタゴ軍が包み込まれた。

ポリュビオスによれば、カルタゴ側の死者は2万、捕虜も2万にのぼり、ローマ側の死者は1500ほどだった。ハンニバルは戦場を逃れてカルタゴに戻り、もはや戦えないとして、和平を受け入れるよう市民を説いた。
紀元前201年に結ばれた講和で、カルタゴはアフリカの外の領土をすべて失い、軍艦は10隻までに制限され、50年かけて莫大な賠償金を払うことになった。ローマの許しなく戦争をすることも禁じられた。スキピオは凱旋し、「アフリカヌス」の名で呼ばれるようになった。

ハンニバルはその後、カルタゴの最高の政務官に選ばれて国の財政を立て直したが、ローマの圧力で国を追われ、東方の王たちのもとを転々とした末、紀元前183年に毒を飲んで死んだ(ハンニバルの死)。スキピオも政敵に追われて政界を退き、ほぼ同じころに亡くなっている。
ザマの後、地中海の西半分にローマに対抗できる国は無くなった。カルタゴは賠償を払い終えて再び豊かになったが、ローマの味方として力を伸ばしたマシニッサとの争いが続き、それがローマに介入の口実を与えた。紀元前146年、カルタゴは攻め滅ぼされる(カルタゴ滅亡)。

戦場の正確な位置は、今も特定されていない。「ザマ」という名も後の時代の著者が付けたもので、いまのチュニジア北部のいくつかの土地が候補に挙がっている。この年表でも、場所には幅を持たせてある。