人物

タルクィニウス・スペルブス

Tarquinius Superbus
? – BC495年
ローマ重要度 3

概要

「傲慢王」。ローマ第7代で最後の王。舅を殺して王位を取り、元老院に諮らず、ケシの頭を切る仕草で敵を殺せと息子に伝えた。ユピテル神殿を建て、シビュラの書を買った。追われてエトルリアの助けを求め、レギッルス湖で負けて、クマエで死んだ。

所属

ローマ

関わったできごと(1)

タルクィニウスの追放(王政の廃止)BC509年(伝承) · 追われた王

本文

ルキウス・タルクィニウス・スペルブスは、伝承でローマ第7代、最後の王とされる人物である。「スペルブス」は「傲慢な」の意味で、ローマ人が彼に与えたあだ名だ。彼の生涯は、紀元前1世紀の終わりにリウィウスが書いた『ローマ建国以来の歴史』や、同じころのギリシア人ディオニュシオスの『ローマ古代史』で知られる。どちらも王の時代から500年近く後に書かれたもので、以下の多くは伝承として読む必要がある。

タルクィニウス・スペルブスが自ら王となる(『ローマ滑稽史』の挿絵、1850年代)
タルクィニウス・スペルブスが自ら王となる(『ローマ滑稽史』の挿絵、1850年代)Wikimedia Commons John Leech · Public domain

伝承によれば、彼はエトルリア系の第5代の王タルクィニウス・プリスクスの子、あるいは孫だった。第6代の王セルウィウス・トゥッリウスには二人の娘がいて、どちらもトゥッリアと呼ばれた。タルクィニウスは姉と、その兄弟のアッルンスは妹と結婚したが、野心家の妹のトゥッリアがタルクィニウスをけしかけ、二人はそれぞれの連れ合いを殺して夫婦になった。やがてタルクィニウスは元老院の王座に座り、駆けつけた老王セルウィウスを階段から投げ落とした。王は帰る途中で殺され、トゥッリアは父の死体の上を馬車で走らせた。その通りはのちに「罪の街路」と呼ばれた。即位は伝承で紀元前534年ごろとされる。

王になったタルクィニウスは、先王を葬らず、元老院に諮らずに裁判をし、自分の気に入らない者を死刑や追放にしたと伝えられる。護衛をつけて歩いたのも、ローマ人には僭主の振る舞いに見えた。近隣の町ガビイを落としたときの話はよく知られている。息子セクストゥスが父に虐げられたふりをしてガビイに逃げ込み、信用を得て軍を任されると、使者を送って父に指示を求めた。王は使者に何も答えず、庭を歩きながら杖で背の高いケシの花の頭を次々に払い落とした。報告を聞いたセクストゥスは意味を悟り、町の有力者を殺してガビイを父に差し出した。同じ型の話はヘロドトスがギリシアの僭主について書いており、ローマの伝承がそれを借りたとみる研究者が多い。

月桂冠を受け取るタルクィニウス・スペルブス(アルマ=タデマ画、手前のケシは「背の高いケシ」の寓意)
月桂冠を受け取るタルクィニウス・スペルブス(アルマ=タデマ画、手前のケシは「背の高いケシ」の寓意)Wikimedia Commons Lawrence Alma-Tadema · Public domain

一方で、彼は大きな工事をした王として語られる。カピトリウムの丘にユピテル・オプティムス・マクシムスの神殿を建て始め、エトルリアから職人を呼んだ。土台を掘ると人の頭が出てきて、ここが世界の頭になるしるしとされ、丘の名「カピトリウム」はこの頭(カプト)から来たと説明された。ローマの低地の水を抜く大下水道クロアカ・マクシマも、彼の時代の工事と伝えられる。また、老女が売りに来た予言の書9巻を高すぎると断ると、老女は3巻を焼いて残りを同じ値で示し、また断るとさらに3巻を焼いた。王は残った3巻を最初の9巻の値で買った。これが国家の危機に開かれた「シビュラの書」の起こりだという。

王政の終わりは、ルクレティアの事件として語られる。ローマ軍が町アルデアを囲んでいたとき、王子セクストゥスが親族コッラティヌスの妻ルクレティアを辱め、ルクレティアは夫と父に事情を告げて自ら命を絶った。王の甥ルキウス・ユニウス・ブルトゥスが人々を立たせ、王の一家を追放した。伝承では紀元前509年、即位から25年目のことである(タルクィニウスの追放(王政の廃止))。ローマはこのあと王を置かず、毎年選ばれる二人の執政官が国を率いる時代に入った。

タルクィニウスはあきらめなかった。エトルリアの町カエレに逃れ、ウェイイとタルクィニイの軍を連れて戻ってきたが、アルシアの森の戦いで退けられた。この戦いでブルトゥスは王子アッルンスと相討ちになって死んだという。次にクルシウムの王ポルセンナを頼り、ローマは包囲された。橋を一人で守ったホラティウス・コクレスや、自分の右手を火にかざしたムキウス・スカエウォラの話はこのときのものとされる。最後はラテン人の町々を味方にして、レギッルス湖畔で戦ったが敗れた。リウィウスはこれを紀元前496年とする。老いた王はギリシア人の町クマエ(ギリシア人のクマエ植民)の僭主アリストデモスのもとへ身を寄せ、紀元前495年にそこで死んだと伝えられる。

いまの研究者は、この物語をそのまま史実とはみない。ローマの建国から王政の終わりまで244年を7人の王で治めたとすれば、一人あたり35年近くになり、古代の王としては長すぎる。ただ、紀元前6世紀のローマがエトルリア系の支配者のもとで町としての形を整えたことは、発掘からも確かめられている。カピトリウムの神殿の巨大な土台は、まさにこの世紀の末のものである。「傲慢な王の追放」の話は、ローマがエトルリア系の王の支配を脱した出来事を、ローマ人が一つの家の物語として語り直したものと読める。ポルセンナが実はローマを降伏させていたことをうかがわせる記述も、のちの著述家のあちこちに残っている。

王の名の記憶は、ローマ人の政治の感覚を長く縛った。「王(レクス)」はののしりの言葉になり、紀元前44年にカエサルが王になろうとしていると疑われたとき、彼を刺した者たちの中心にいたのは、王を追ったブルトゥスの子孫を名乗るブルートゥスだった。のちの皇帝たちも王とは名のらず、「第一の市民(プリンケプス)」と称した。ルクレティアの物語は、1594年にウィリアム・シェイクスピアが長詩『ルークリース凌辱』に書き、絵画の題材としても繰り返し描かれた。そこでは王タルクィニウスは脇役で、主役は息子と、辱められた女性である。

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