できごと

アレシアの戦い

Battle of Alesia
BC52年
重要度 5
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ローマパルティアサーミサルマタイプトレマイオス朝小国群ガリア諸部族メロエケルト系の人びとヌミディアPlain-Pottery cultureダキア人マウレタニアBrushed Pottery cultureBell-shaped burials cultureMaanナバテア王国Milograd cultureEastern Masurian cultureボスポロス王国ブレンミュエスPomeranian cultureBC52年アレシア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC52年の版図を描いています(23勢力)。

概要

二重の包囲陣でウェルキンゲトリクスを降し、ガリアの組織的抵抗を終わらせた。

場所

アレシア
47.54°N 4.50°E · フランス・コート=ドール県アリーズ=サント=レーヌ

関わった人(2)

ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · ローマ側 · 総指揮ウェルキンゲトリクスBC82年頃–BC46年 · ガリアの総指揮

本文

紀元前52年、ガリア(いまのフランスとその周辺)の諸部族は、初めて一人の指導者のもとにまとまった。アルウェルニ族の若い貴族ウェルキンゲトリクスである。ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前58年に始めたガリア戦争は、それまで部族ごとの戦いだった。部族はローマと個別に結んだり背いたりし、そのたびに各個に討たれてきた。

その冬、カエサルがイタリア側で政情の対応に追われているあいだに、ガリア中部で反乱が広がった。ローマの商人が殺され、多くの部族がウェルキンゲトリクスを総指揮者に選んだ。彼が取った戦い方は、正面から会戦しないことだった。ローマ軍の行く先の村や穀物を焼き、食糧を現地で集められなくする。軍団は補給を断たれ、動けば動くほど弱る。

刺(Strimulos)の図解
刺(Strimulos)の図解Wikimedia Commons Public domain

この方針は一度、仲間によって破られた。美しい町アウァリクムだけは焼かないでほしいという願いを聞き入れ、守ることにしたのである。カエサルは町を包囲して落とし、『ガリア戦記』によれば約4万の住民のうち逃れたのは800人ほどだったという。一方、続くゲルゴウィアの攻囲ではカエサルが撃退され、多くの兵を失った。ガリア戦争でカエサルが喫した、数少ない明白な敗北である。

その後、ウェルキンゲトリクスは騎兵で行軍中のローマ軍を襲ったが、カエサルが雇っていたゲルマン人の騎兵に崩された。彼は約8万の兵を連れ、マンドゥビイ族の町アレシアに入った。台地の上にある町で、まわりを川と丘に囲まれている。ここで援軍を待ち、内と外から挟み撃ちにするつもりだったと考えられる。

"Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" フランス人画家リオネル・ロワイヤル(en)による1899年の作(ル・ピュイ=アン=ヴレのクロザティエ博物館[cf.en / fr]所蔵)カエサル(右・赤のトーガ)に降伏したウェルキンゲトリクス(左・馬上)
"Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" フランス人画家リオネル・ロワイヤル(en)による1899年の作(ル・ピュイ=アン=ヴレのクロザティエ博物館[cf.en / fr]所蔵)カエサル(右・赤のトーガ)に降伏したウェルキンゲトリクス(左・馬上)Wikimedia Commons Lionel Royer · Public domain

カエサルの答えは、町ごと囲むことだった。台地を取り巻く包囲線を築き、さらにその外側に、援軍を防ぐための第二の線を築いた。『ガリア戦記』によれば内側の線は約16キロ、外側は約21キロにおよぶ。堀を二重に掘り、土塁と柵を立て、塔を並べた。前面の地面には、先を尖らせた枝を植えた溝、杭を隠した落とし穴、鉄の鉤を付けた杭を埋めた区画を何列も設けた。兵士たちはそれに「百合」「刺し棒」といったあだ名を付けている。これを5〜6万ほどとされる兵で、敵を前にしながら作り上げた。

町の中では食糧が尽きかけていた。籠城を続けるため、ガリア側は戦えない町の住民を城外へ出した。カエサルは彼らを包囲線の中に入れなかった。住民は二つの軍のあいだの斜面に取り残された。カエサルはその後どうなったかを書いていない。

ユリウス・カエサルの大理石像
ユリウス・カエサルの大理石像Wikimedia Commons Gautier Poupeau from Paris, France · CC BY 2.0

やがて救援軍が到着した。カエサルは歩兵25万、騎兵8000と記すが、そのまま受け取る研究者は少なく、実数ははるかに少なかったとみられている。それでもローマ軍は、内側の8万と外側の大軍に、同時に攻められることになった。数日のうちに三度の攻撃があり、最後の戦いは北西の丘にある陣地に集中した。地形のせいで線が弱くなっていた場所である。カエサルは赤い外套を目印に自ら前線へ駆けつけ、同時に騎兵を外側へ回り込ませて敵の背後を突かせた。救援軍は崩れ、散り散りになって引き揚げた。

翌日、ウェルキンゲトリクスは降伏した。カエサルは、武器と指導者が差し出されたと簡潔に書く。のちの著述家プルタルコスは、彼が最も美しい鎧を着て馬でカエサルの前を一巡りし、武具を投げ捨てて足元に座ったと描いているが、劇的に整えられた場面とみるべきだろう。捕虜はローマ兵に一人ずつ分け与えられ、奴隷として売られた。

ウェルキンゲトリクスの金貨(紀元前53〜52年)
ウェルキンゲトリクスの金貨(紀元前53〜52年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ウェルキンゲトリクスはローマに送られ、6年間牢に置かれた。紀元前46年、カエサルの凱旋式で引き回されたあと処刑されたとされる。ガリアでは翌年まで散発的な抵抗が続いたが、組織だった抵抗はアレシアで終わった。ガリアはその後5世紀近く、ローマの属州として歩むことになる。

この勝利はローマ政界の力関係も変えた。三頭政治の一角クラッススは前年に東方で戦死しており、カエサルとポンペイウスのあいだの均衡は崩れつつあった。ガリアを平定した将軍は、富と忠実な軍団を手にしていた。3年後のルビコン渡河は、この延長線上にある。

ルビコン渡河に関わる図版:Crossing the Rubicon
ルビコン渡河Wikimedia Commons Jacob Abbott · Public domain

アレシアの場所は、19世紀にナポレオン3世が発掘させたブルゴーニュ地方のアリーズ=サント=レーヌとするのが通説である。20世紀末の発掘でも、記述に合う堀や罠の跡が確かめられた。ただし、別の土地を候補とする説もいまだに唱えられている。

この戦いについて分かることの大半は、勝った側のカエサル自身が書いた『ガリア戦記』による。簡潔で読みやすい文章だが、ローマの市民に向けて自分の功績を伝える目的で書かれたもので、数字や敵の描き方はそのつもりで読む必要がある。負けた側の記録は残っていない。ウェルキンゲトリクスの名が広く知られるようになったのは19世紀で、プロイセンとの戦いを前にしたフランスで、外敵に抵抗した最初の国民的英雄として持ち上げられた。ナポレオン3世はアリーズの丘に彼の巨大な像を建てさせている。

出典(2)

ガイウス・ユリウス・カエサル 『ガリア戦記』第7巻 68–89
塩野七生 『ローマ人の物語』IV ユリウス・カエサル ルビコン以前

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