ディオクレティアヌスの最高価格令
概要
貨幣を改めても物価が止まらず、皇帝は1000以上の品と賃金に上限を定め、違反は死刑とした。小麦、獅子、紫の絹、床屋の値段まで。品物が市場から消え、数年で守られなくなった。石に刻まれた断片が帝国中で見つかっている。
場所
40.77°N 29.94°E · トルコ・イズミト
関わった人(1)
ディオクレティアヌスAD244年頃–311年 · 皇帝本文
3世紀のローマ帝国は、半世紀のあいだに皇帝が次々に立っては殺される混乱の時代を経験した(三世紀の危機)。国境では外敵が押し寄せ、兵士に払う給料はかさむ一方だった。歴代の皇帝は、銀貨に混ぜ物を増やし、同じ量の銀からより多くの貨幣を作ってしのいだ。2世紀には純度の高かった銀貨は、3世紀の後半には、銀をわずか数パーセントしか含まない、銀めっきの銅貨のようなものになっていた。人々は貨幣を信用しなくなり、物の値段は上がり続けた。
284年に皇帝になったディオクレティアヌスは、帝国を立て直すために次々に手を打った。帝国を東西に分け、正帝と副帝の四人で治める四分統治の開始を作り、属州を細かく分け、軍を増やし、税の仕組みを改めた。貨幣も作り直した。294年ごろ、金の含有量を定めた金貨と、純度の高い新しい銀貨、それに銀をうすくかぶせた大型の銅貨をそろえ、帝国のどこでも同じ貨幣が使えるようにした。それでも物価は止まらなかった。301年9月には、一部の貨幣の額面を倍に引き上げる命令も出している。

そして同じ301年の暮れ、四人の皇帝の名で、いわゆる最高価格令が出された。その序文は、怒りに満ちた調子で書かれている。商人たちの強欲は狂ったように荒れ狂い、豊作の年でさえ値をつり上げている。兵士たちは、一度の買い物で、給料も褒美もすべて奪われてしまう。皇帝は、これを放っておくことはできないと宣言する。そのうえで、以下に定めるのは最高の価格であって、それ以下で売ることは妨げない、と断ったうえで、違反した者は死刑に処すと定めた。決められた値段を超えて売った者だけでなく、買った者も、品物を隠して売り惜しんだ者も、同じ罰を受けるとされた。
価格表は、千を超える品物と労賃にわたっていた。値段は、実際の貨幣ではなく、計算の単位であるデナリウスで示されている。軍で使う升で量った小麦一杯が100デナリウス。肉では豚肉が牛肉より高い。上等のワインと安いワイン、ガリアのビールとエジプトのビールが区別され、靴は兵士用、農民用、女性用と種類ごとに値がついた。賃金の表では、食事つきの農場の日雇いが一日25デナリウス、床屋は客一人につき2デナリウス、読み書きを教える教師は生徒一人につき月50デナリウス、弁護士は弁論一回で1000デナリウスである。見世物に使うアフリカの獅子や、紫に染めた絹のような贅沢品にも、目のくらむような値がつけられていた。運賃の表からは、陸の上を荷車で運ぶより、海を船で運ぶほうがはるかに安かったことが分かる。
この法の弱点は、帝国のどこでも同じ上限を定めたことにあった。小麦の取れる土地と取れない土地、港の町と内陸の町では、もとの値段が違う。運ぶ費用もかかる。上限が実際の値段より低ければ、売り手は損をしてまで品物を出そうとはしない。同じ時代のキリスト教徒の著述家ラクタンティウスは、この法のために、小さな安い品物のことでも多くの血が流され、人々は恐れて市場に何も出さなくなり、品不足は前よりひどくなった、そしてついに、多くの人が死んだあとで法は自然に消えた、と書いている。ラクタンティウスは、303年からキリスト教徒を大々的に迫害した(ディオクレティアヌスの大迫害)ディオクレティアヌスを憎んでおり、その筆は割り引いて読む必要がある。それでも、この法が数年のうちに守られなくなったことは確かである。

法は、帝国中の町の広場や公共の建物の壁に、石に刻まれて掲げられた。その断片が、これまでに数十か所から見つかっている。ほとんどは、ディオクレティアヌスが治めていた帝国の東の半分、いまのギリシアやトルコ、エジプトなどからで、ラテン語のもののほか、ギリシア語に訳されたものもある。最初の断片は1709年、小アジアのストラトニケイアで見つかった。その後、各地の断片をつなぎ合わせることで、価格表のかなりの部分が読めるようになった。
皮肉なことに、守られずに消えた法が、のちの歴史家にとっては最良の史料になった。ローマ帝国の時代の物の値段や賃金が、これほどまとまって残っているものはほかにない。小麦と肉の値段の比べ方、職人と教師の稼ぎの違い、陸と海の運賃の差。法の文面から、古代の人々の暮らしの手ざわりが読み取れる。

ディオクレティアヌスは、帝国を20年あまり治めたあと、305年、もう一人の正帝とともに自ら位を退いた。ローマの皇帝として初めてのことである。故郷に近いアドリア海の岸、いまのクロアチアのスプリトに建てた宮殿に引きこもり、数年後、政治の混乱を収めるために復位を求められると、自分が手ずから育てたキャベツを見れば、そんなことを勧めはしないだろう、と答えたと伝えられる。上からの命令で値段を抑えようとする試みは、その後の時代にもくり返され、似た結末をたどることが多かった。最高価格令は、その最も古く、最もよく記録された例の一つである。