ヘラクレアの戦い
概要
エピロス王ピュロスが南イタリアのギリシア都市に呼ばれ、象20頭でローマ軍を破った。ローマ兵は象を初めて見た。勝ったが失った兵が戻らず、翌年も勝って「もう一度こう勝てば、私は滅びる」。ピュロスの勝利。
場所
40.22°N 16.65°E · イタリア・バジリカータ州
関わった人(1)
ピュロスBC319年–BC272年 · 王本文
紀元前3世紀のはじめ、ローマはイタリア半島の中部をほぼ押さえ、南へ勢力を伸ばしつつあった。半島の南の海岸には、何百年も前からギリシア人の植民市が並んでいた。中でも大きく豊かだったのが、長靴の形の土踏まずにあたる港町タレントゥムである。タレントゥムは、ローマの軍船がある岬より先の海に入らないという取り決めをローマと交わしていたとされる。
紀元前282年、ローマの小さな艦隊がタレントゥムの湾に現れた。劇場に集まっていた市民はこれを取り決め違反とみて怒り、船を襲って何隻かを沈めた。ローマが謝罪と償いを求める使者を送ると、市民は使者のぎこちないギリシア語を笑い、ある男が使者の衣に汚物をかけた、と古代の歴史家は伝える。使者は、この衣は諸君の血で洗われることになる、と言い残して帰ったという。どこまでが事実かは分からないが、戦争は避けられなくなった。

自分たちの軍だけではローマに勝てないと考えたタレントゥムは、アドリア海の向こう、ギリシアの北西の王国エピロスの王ピュロスに助けを求めた。ピュロスは、アレクサンドロス3世の母方の親戚にあたり、アレクサンドロスの死後の後継者たちの争いの中で戦い抜いてきた、当代一の名将と目される人物だった。西方に自分の帝国を築く機会と見たピュロスは、紀元前280年、歩兵と騎兵、合わせて2万5000ほどの兵と、20頭の戦象を率いてイタリアへ渡った。象は、アレクサンドロスの東方遠征のあとに地中海の世界に入ってきた兵器で、イタリアの人々はまだそれを見たことがなかった。
同じ年の夏、執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスの率いるローマ軍が、南イタリアのヘラクレアの近く、シリス川のほとりでピュロスの軍と向き合った。ローマ軍は川を渡って攻めかかり、騎兵どうしの戦いではローマ側が押した。続いて、長い槍を構えて密集したピュロスの重装歩兵と、ローマの軍団の歩兵がぶつかった。プルタルコスによれば、戦いの形勢は七度も入れ替わったという。ピュロス自身も戦いのただ中にいて、王の武具を身に着けた側近が討たれ、王が死んだという噂が広がりかけた。

勝負を決めたのは象だった。ピュロスが送り出した象の群れを見て、ローマの騎兵の馬はおびえ、乗り手の言うことを聞かずに逃げ出した。崩れたローマの騎兵に、ピュロスの騎兵が襲いかかり、ローマ軍は敗走した。死者の数は伝える書物によって大きく違い、ローマ側が7000、ピュロス側が4000足らずとする記録もあれば、それぞれ1万5000と1万3000とする記録もある。いずれにせよ、ピュロスが失った兵の多くは、エピロスから連れてきた古参の兵と、信頼する将校たちだった。故郷から遠く離れた土地で、彼らを補うことは難しかった。
戦場を見て回ったピュロスは、ローマの兵の死体がみな前を向き、胸に傷を受けて倒れているのに心を動かされ、このような兵がいれば世界を征服できるのに、と語ったと伝えられる。ピュロスは勝利の勢いでローマに向けて進み、雄弁で知られる側近キネアスを使者として送って講和を持ちかけた。キネアスの弁舌に、元老院の議員たちは傾きかけた。そこへ、年老いて目の見えなくなっていた元の監察官アッピウス・クラウディウスが、息子たちに担がれて議場に現れ、敵がイタリアの地にいるかぎり和平を論じるべきではない、と説いた。元老院は講和を退けた。帰ったキネアスは、元老院は王たちの集まりのようだったと報告したという。

翌紀元前279年、ピュロスはアスクルムで再びローマ軍を破ったが、ここでも多くの兵を失った。プルタルコスによれば、祝いの言葉をかけた者に、ピュロスは、もう一度ローマ人にこのように勝てば、我々は完全に滅びるだろう、と答えたという。大きな犠牲を払って得た、割に合わない勝利を「ピュロスの勝利」と呼ぶのは、この言葉に由来する。ローマは負けても、新しい軍団を次々に送り出すことができた。同盟の都市から兵を集める仕組みを持っていたからである。
ピュロスは、その後シチリアに渡って、カルタゴと戦うギリシア人の都市を助けたが、そこでも思うような結果を得られなかった。紀元前275年、イタリアに戻ったピュロスはベネウェントゥムでローマ軍と戦って敗れ、エピロスへ帰った。ローマはこの戦いで捕らえた象を、凱旋の行列で都の人々に見せた。ピュロスはその後もギリシアで戦い続け、紀元前272年、アルゴスの町の市街戦のさなか、屋根の上から老女が投げた瓦に当たって倒れ、命を落としたと伝えられる。同じ年、タレントゥムはローマに降り、南イタリアはローマのものになった。

ヘラクレアの戦いは、ローマが初めてヘレニズムの世界の本格的な軍隊と戦った戦いだった。ローマは負けたが、そこから象と密集の歩兵への戦い方を学び、海の向こうの大国と向き合う時代へ踏み出した。ピュロスが去ってから11年後、ローマはシチリアをめぐってカルタゴと戦争を始める(第一次ポエニ戦争)。