アクアエ・セクスティアエの戦い

概要
北から来たキンブリ族とテウトネス族が、ローマの軍を5度破った。アラウシオで8万。マリウスが軍を作り直して、プロヴァンスでテウトネスを、翌年ヴェルケッラエでキンブリを潰した。女たちは荷車の上で戦い、子を殺して自殺した。ゲルマン人の最初の侵入。
場所
43.53°N 5.45°E · フランス・エクサンプロヴァンス
関わった人(1)
マリウスBC157年–BC86年 · 勝った本文
紀元前120年ごろ、ユトランド半島のあたりから、キンブリ族とテウトネス族、それに加わったアンブロネス族が、家族と家畜と家財を荷車に積んで南へ動き出した。海が土地を呑んだためだという話が古代に伝わるが、本当の理由は分からない。彼らは戦うための軍ではなく、住む土地を探す民の群れだった。その言葉がゲルマン系だったか、ケルト系だったかについても、議論がある。
紀元前113年、ローマの執政官カルボは、アルプスの東のノレイアで彼らと戦って大敗した。彼らはその後ガリアへ移り、ローマの軍は紀元前109年、107年と負け続けた。紀元前105年10月6日、ローネ川のほとりのアラウシオ、いまのオランジュで、ローマは執政官マッリウスと前執政官カエピオの二つの軍を送った。二人は家柄の違いから反目し、陣を別々に構えたまま、一つずつ破られた(アラウシオの戦い)。死者は兵だけで8万にのぼったと伝えられ、カンナエの戦い以来の大敗とされる。イタリアは恐怖に包まれた。だが彼らはイタリアへは向かわず、スペインへ入り、そこでケルティベリア人に押し返された。

このときローマが頼ったのが、北アフリカのユグルタ戦争を終わらせたばかりのマリウスだった。地方の騎士の家の出で、名門の出ではない男が、紀元前104年から5年続けて執政官に選ばれた。法の決まりを破る異例のことである。マリウスは、それまで財産を持つ市民に限られていた兵に、土地を持たない者も志願して入れるようにし、国が武器を与えた(マリウスの軍制改革)。兵には武器と食料と道具を自分で担がせ、「マリウスのラバ」と呼ばれた。敵が戻ってくるまでの間、兵たちは訓練を重ね、ローネ川の河口に運河を掘った。
紀元前102年、彼らは二手に分かれてイタリアを目指した。キンブリ族はアルプスの東から、テウトネス族とアンブロネス族は南ガリアを通って海沿いから。マリウスはローネ川のそばに陣を固め、兵を外に出さなかった。兵たちに、まず敵の大きな体と叫び声に慣れさせるためだったという。テウトネス族は陣を攻めあぐね、その前を通り過ぎてイタリアへ向かった。通り過ぎるのに6日かかり、ローマ兵に向かって、ローマの妻たちに伝えることはないかと嘲った、とプルタルコスは書いている。

マリウスはその後を追い、アクアエ・セクスティアエ、いまのエクス・アン・プロヴァンスの近くで追いついた。まず川で水浴びをしていたアンブロネス族と戦いになり、これを打ち破った。その二日後、マリウスは丘の上に陣取ってテウトネス族を迎え撃ち、あらかじめ部下のマルケッルスに3000の兵を与えて背後の森に潜ませておいた。丘を登ってくる敵を正面で受け止めたところへ、背後から伏兵が襲いかかり、テウトネス族は崩れた。殺され、あるいは捕らえられた者は10万に及んだとプルタルコスは伝えるが、ローマ側の数字であり、誇張を含むとみられる。王テウトボドゥスは捕らえられた。
その後、マッシリア(いまのマルセイユ)の人々は戦場の骨でぶどう畑の垣を作り、土地は朽ちた屍で肥えて、何年も豊かな実りがあったという。捕らえられたテウトネス族の女たちが、ウェスタの巫女に仕えさせてほしいと願い、断られて自ら命を絶ったという話も、ローマの著作家たちが書き残している。

キンブリ族はアルプスを越えて北イタリアに下りていた。紀元前101年7月30日、マリウスと同僚のカトゥルスは、ヴェルケッラエの近くの平原でこれを迎えた。キンブリの王ボイオリクスは、自分たちと兄弟のテウトネス族のための土地を求めたが、マリウスは、兄弟たちはもう土地を得ている、永久にな、と答えたと伝えられる。真夏の暑さと照り返しが北の民を苦しめ、キンブリ族は壊滅した。荷車の上で戦い、逃げる男たちを打ち、最後には子を手にかけて自ら死んでいった女たちの姿を、ローマの著作家たちは書き残している。
マリウスは「ローマの第三の建国者」とたたえられ、紀元前100年には6度目の執政官となった。だが、彼の作った軍は、国ではなく、給料と退役後の土地をくれる将軍に忠誠を誓う兵の集まりになった。やがてマリウス自身とスッラが、それぞれの兵を率いてローマで争い、その後にガイウス・ユリウス・カエサルが現れる。共和政を終わらせる力は、北の民からローマを救った軍の中に育っていた。北の民がローマの国境を脅かす歴史は、ここに始まり、トイトブルク森の戦いへと続いていく。