できごと

ガリア帝国

Gallic Empire
AD260年
重要度 3
ガリア帝国に関わる図版:GallicEmpire262
GallicEmpire262 Wikimedia Commons Original - ArdadN ; edit - Wario2. · Public domain

概要

皇帝がペルシアに捕えられた年、ライン軍がポストゥムスを皇帝に立てた。ガリア、ブリタニア、ヒスパニアが14年、別の帝国になった。皇帝も元老院も貨幣もあった。アウレリアヌスが終わらせる。

場所

トリーア
49.75°N 6.64°E · ドイツ

本文

3世紀の半ば、ローマ帝国は四方から押されていた。北ではライン川とドナウ川を越えてゲルマン人の諸部族が入り込み、東ではササン朝ペルシアが攻めてくる。皇帝は兵の支持で立ち、兵の不満で殺された。50年ほどのあいだに、正統と認められた皇帝だけで20人を超える。この時代は三世紀の危機と呼ばれる。

260年、東方へ遠征していた皇帝ウァレリアヌスが、エデッサの近くでペルシアのシャープール1世に捕らえられた(ローマ皇帝が捕らわれる)。生きたまま敵の手に落ちたローマ皇帝は、これが初めてだった。共同皇帝だった息子のガッリエヌスは、ドナウ方面で戦いながら、帝国の東と西の両方を一人で守ることになる。西のライン川沿いの守りは、まだ少年だったガッリエヌスの息子サロニヌスと、その後見役の役人に任されていた。

古代ローマの大浴場跡
古代ローマの大浴場跡Wikimedia Commons Berthold Werner · Public domain

ライン軍を率いていたのは、ガリア生まれの将軍ポストゥムスである。侵入したゲルマン人を破ったあと、取り返した戦利品の扱いをめぐって、コロニア・アグリッピナ(いまのケルン)にいたサロニヌスの側と対立した。兵はポストゥムスを皇帝に推し、コロニアを囲んだ。町の人々はサロニヌスと後見役を差し出し、二人は殺された。ガリア、ゲルマニア、ブリタニア、そして翌年にはヒスパニアも、ポストゥムスを皇帝と認めた。

こうして生まれた国を、後の歴史家は「ガリア帝国」と呼ぶ。しかし当人たちに独立国を作ったつもりはなかった。ポストゥムスはローマ皇帝の称号を名乗り、毎年執政官を置き、元老院にあたる会議を持ち、近衛兵を従え、自分の肖像を刻んだ貨幣を打った。ローマの制度をそのまま写した、もう一つのローマである。彼はイタリアへ攻め上ってガッリエヌスと帝位を争おうとはせず、ライン川の守りに専念した。貨幣には「ガリアの回復者」という銘が刻まれている。国境の住民にとっては、遠いローマの皇帝よりも、目の前で敵を追い払ってくれる皇帝のほうが頼りになった。

トリーアの選帝侯宮殿
トリーアの選帝侯宮殿Wikimedia Commons Berthold Werner · Public domain

ガッリエヌスも黙っていたわけではない。265年ころにガリアへ攻め込んだが、包囲のさなかに矢を受けて負傷し、兵を引いた。その後は東方や本国の反乱に追われ、ガリアに手を出せなくなる。帝国の東でも、シリアの隊商都市パルミラが自立の動きを強め、のちに女王ゼノビアのもとで別の勢力となった(ゼノビアのパルミラ)。ローマ帝国は、西のガリア帝国、中央のローマ、東のパルミラの三つに割れた形になった。

269年、マインツで将軍ラエリアヌスが反乱を起こした。ポストゥムスはこれを鎮めたが、町の略奪を兵に許さなかった。怒った兵は、ポストゥムスを殺した。後を継いだマリウスは短期間で倒れ、次に近衛の長だったウィクトリヌスが立った。この混乱のなかでヒスパニアは離れ、イタリアの皇帝クラウディウス2世の側についた。ウィクトリヌスも271年ころ、部下の妻に手を出したとして殺されたと伝えられる。その後、ガリアの貴族テトリクスが皇帝に立てられ、都はトリーアに置かれた。

274年、ローマの皇帝アウレリアヌスは、前の年にパルミラを降したあと、軍を西へ向けた。両軍はカタラウヌム(いまのシャロン=アン=シャンパーニュの近く)で戦い、ガリア帝国の軍は敗れた。テトリクスは戦いの途中で自分の軍を見捨てて降った、とする話が後の史料にある。兵の統制に疲れていた彼が、ひそかにアウレリアヌスと通じていたというのだが、どこまで本当かは分からない。こうしてガリア帝国は、260年から14年で終わった(アウレリアヌスの帝国再統一)。

ローマで行われた凱旋式で、テトリクスはゼノビアとともに市中を引き回された。ところがその後、アウレリアヌスは彼を殺さず、南イタリアのルカニアの総督に任じたと伝えられる。分かれた西を処刑ではなく取り込みで収めたことになる。アウレリアヌスは帝国を一つに戻して「世界の修復者」と称されたが、翌275年、遠征の途中で部下に殺された。

ガリア帝国が残したものは、中央の皇帝がいなくても辺境は自分で自分を守れる、という前例だった。3世紀の終わりにディオクレティアヌスが帝国を分けて複数の皇帝で治める仕組みを作ったのは、一人の皇帝ではこの広さを守りきれないという、この時代の経験から来ている。トリーアはその後も西方の皇帝の都であり続け、コンスタンティヌス1世もここに宮廷を置いた。町にはいまも、ローマ時代の黒ずんだ城門「ポルタ・ニグラ」が立っている。

同じ時代のできごと

サハラへのラクダの導入3世紀マニ教の成立AD240年頃正始の音(玄学の始まり)AD240年箸墓古墳AD250年頃キプリアヌスの疫病249年高平陵の変AD249年マヤ古典期AD250年デキウスの迫害AD250年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD260年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →