ハドリアヌスの長城
概要
拡大をやめて境界を固める方針の象徴。全長117kmの石壁が島を横切った。
場所
55.02°N -2.29°E · イギリス・イングランド北部
関わった人(1)
ハドリアヌス76年1月24日–138年7月10日 · 命令本文
ローマがブリテン島の征服に乗り出したのは、紀元43年のクラウディウスのブリタニア征服からである。その後、ブーディカの反乱のような激しい抵抗を受けながらも、ローマは島の南半分を属州として固めていった。1世紀の終わりには、将軍アグリコラがスコットランドの奥深くまで進んだが、北の高地を治め続けることはできず、軍はしだいに南へ引き戻されていた。
117年に即位したハドリアヌスは、前の皇帝トラヤヌスとはまったく違う方針をとった。トラヤヌスは東方でメソポタミアにまで領土を広げ、ローマの版図を最大にした皇帝である。ハドリアヌスは即位するとすぐ、維持しきれないとみたメソポタミアの新しい属州を手放した。帝国をこれ以上広げるのではなく、いまある国境を固める。その方針がもっともはっきりと形になったのが、ブリテン島の長城だった。

122年ごろ、ハドリアヌス自身がブリテン島を訪れ、壁の建設が始まったと考えられている。後世の伝記は、その目的を「ローマ人と蛮族を分けるため」と書いている。壁は、東のタイン川の河口から西のソルウェー湾まで、島のもっとも細いところを横切った。長さはローマの単位で80マイル、およそ117キロになる。
壁は、東の部分は石で、西の部分ははじめ芝土を積んで造られ、のちに石に置き換えられた。高さは場所によって4から5メートルほどだったと推定されている。北側には深い堀が掘られた。ローマの1マイルごとに小さな砦が置かれ、その間には2基ずつ監視塔が建てられた。さらに後から、数百人の兵が詰める大きな砦が十数か所、壁に沿って加えられた。南側には、土手と溝からなる「ヴァルム」と呼ばれる区画も設けられている。

建設に当たったのは、ブリテン島に駐屯していた3つの軍団の兵士たちだった。壁の石には、どの部隊がどこを造ったかを刻んだ石板が残っている。完成までにはおよそ6年かかったとされる。壁の守りには、軍団兵ではなく、帝国の各地から集められた補助軍の兵が当たった。いまのベルギーやドイツ、シリアなど遠くから来た兵が、この寒い島の北辺に詰めていた。
ただ、壁は、大軍の侵入を食い止めるための城壁としては、それほど高くも厚くもなかった。それよりも、人や家畜、荷物が通れる場所を、小さな砦の門に絞り込むための仕掛けだったという見方が強い。そこで通行を見張り、税を取り、小さな襲撃を防ぐ。国境の内と外を行き来する人の流れを、ローマが管理するための線だった。

壁の近くのウィンドランダの砦の跡からは、薄い木の板に墨で書かれた手紙が数百通も見つかっている。兵士の妻どうしが送った誕生日の招待状、靴下やパンツを送ってほしいという頼み、物資の注文書などである。国境の砦の、ごく普通の暮らしがそこから見えてくる。
壁がそのまま最前線であり続けたわけではない。ハドリアヌスの次の皇帝アントニヌス・ピウスは、140年代に、さらに北のスコットランドの中部に、芝土の壁を新しく築いた。アントニヌスの長城である。だがこの北の壁は20年ほどで放棄され、ローマ軍は再びハドリアヌスの長城まで戻った。その後、修理と改築を重ねながら、壁はローマがブリテン島を去る5世紀のはじめまで、帝国の北の境として使われ続けた。

ハドリアヌスは、在位21年のうち半分以上を、属州を巡る旅に費やした皇帝だった。ブリテン島のほか、ガリア、スペイン、北アフリカ、ギリシア、エジプトなどを回り、各地の軍を視察し、町を建て、建物を寄進した。ローマのハドリアヌスのパンテオンを建て直したのもこの皇帝である。広げるのではなく、あるものを見て回り、整える皇帝だった。
ローマはおよそ400年にわたって、領土を広げることで成り立ってきた国だった。新しい土地から入る富と奴隷が、国を潤してきた。ここから先は取らない、と決めて線を引いたことは、その時代が終わりに近づいたことを示している。壁の多くは、中世以降に石材として持ち去られたが、いまも残る部分は1987年に世界遺産に登録された。丘陵の尾根を縫うように延びる石の壁は、ローマ帝国の北の果てを今に伝えている。