コンモドゥスの暗殺と五皇帝の年
概要
闘技場で剣闘士として戦った皇帝が、大晦日に風呂で絞め殺された。翌年、近衛兵が帝位を競売にかけ、四人が名乗り、属州の軍を持つセウェルスが勝った。五賢帝の世紀が終わる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(2)
コンモドゥスAD161年8月31日–AD192年12月31日 · 皇帝セプティミウス・セウェルスAD145年4月11日–AD211年2月4日 · 勝ち残った本文
96年のネルウァの即位から、180年のマルクス・アウレリウスの死まで、ローマ帝国は五人の皇帝のもとで、のちに人類の最も幸福な時代とまで呼ばれる安定を保った。その秘訣の一つは、皇帝が実の子ではなく、有能な人物を養子に迎えて跡を継がせたことにあった、と言われる。もっとも、それは前の四人に跡を継ぐ息子がいなかったためでもある。マルクス・アウレリウスには息子がいた。それがコンモドゥスである。
コンモドゥスは161年に生まれ、父の存命中の177年に共同皇帝となり、マルコマンニ戦争の陣中で父の死を見届けた。18歳で単独の皇帝になると、まもなく部族と講和を結んでローマへ帰った。歴史家のカッシウス・ディオは、マルクスの死とともに、ローマの歴史は黄金の王国から鉄と錆の王国へ落ちた、と書いている。

182年、姉のルキラが加わった暗殺未遂事件が起きると、コンモドゥスは元老院への不信を深め、政治を寵臣たちに任せきりにした。近衛長官のペレンニス、次いで解放奴隷のクレアンデルが権力を握り、官職を売り買いした。どちらも、民衆や兵の怒りが高まると、皇帝自身の手で殺された。
コンモドゥス自身は、闘技場に心を奪われた。皇帝は剣闘士の装いで何百回も闘技場に立ったとされ、相手は皇帝に負けるように仕組まれていた。野獣を射るのも得意で、元老院議員として観客席にいたディオは、コンモドゥスがダチョウの首を切り落とし、その首と剣を手に議員たちの席の前へ来て、無言で首を振ってみせた場面を書き残している。笑いをこらえきれなくなったディオは、冠の月桂樹の葉を噛んでごまかしたという。皇帝は自らをヘラクレスの化身と称して獅子の毛皮をまとい、ローマの町を「コンモディアナ植民市」と改め、一年の月の名まで自分の名前に変えさせた。

192年の暮れ、コンモドゥスは、元日に剣闘士の姿で執政官の就任式に臨むと言い出した。周りの者たちはついに見限った。愛人のマルキア、侍従長のエクレクトゥス、近衛長官のラエトゥスが謀り、大晦日の夜、マルキアが皇帝に毒を盛った。皇帝が毒を吐き出すと、皇帝の相手をしていたレスラーのナルキッススを呼び入れて、皇帝の首を絞めさせた。31歳だった。場所は浴室だったとも寝室だったとも伝わる。
翌193年の元日、謀った者たちは、首都長官だった老練の軍人ペルティナクスを皇帝に立てた。ペルティナクスは解放奴隷の子から身を起こした実直な人で、乱れた財政と軍紀を立て直そうとした。だがそれが近衛兵の不満を招き、3月28日、在位87日で近衛兵に殺された。近衛兵は、帝位を最も多くの金を払う者に与えると宣言した。陣営の前で値を競り合い、富裕な元老院議員のディディウス・ユリアヌスが、兵一人あたり2万5000セステルティウスを約束して帝位を買った。帝位が競売にかけられたこの出来事は、ローマの頽廃の象徴として後世まで語られる。

首都の茶番に、国境の軍団は従わなかった。ドナウ沿いのパンノニアの軍団は総督のセプティミウス・セウェルスを、シリアの軍団はペスケンニウス・ニゲルを、ブリタニアの軍団はクロディウス・アルビヌスを、それぞれ皇帝に推した。セウェルスはアルビヌスに副帝の地位を与えて味方につけ、軍を率いてイタリアへ急いだ。元老院はユリアヌスを見捨て、6月、ユリアヌスは宮殿で殺された。在位66日だった。一年のうちに、コンモドゥスを含めて五人の皇帝が現れたことになる。
ローマに入ったセウェルスは、皇帝を殺し帝位を売った近衛兵を解散させ、自分の軍団の兵で新しい近衛兵を作った。194年にニゲルを東方で破り、197年にはガリアのルグドゥヌム(いまのリヨン)の近くでアルビヌスを破った。内戦は4年で終わり、セウェルスの王朝が始まる。

セウェルスは死に際に息子たちに、兄弟で仲良くし、兵を富ませよ、あとの者は気にするな、と言い残したと伝えられる。皇帝の地位を最後に決めるのは元老院でも血筋でもなく、軍だということを、193年の一年が明らかにした。そのことは、セウェルスの子カラカラの時代(カラカラ浴場)を経て、50年後には軍が次々に皇帝を立てては殺す時代(軍人皇帝時代の始まり)へとつながっていく。