アウレリアヌスの帝国再統一
概要
三つに割れた帝国を、5年でひとつに戻した。パルミラを落とし、ガリアを取り戻し、ローマに城壁を築く。「世界の回復者」と刻まれ、翌年に部下に殺された。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
3世紀の半ば、ローマ帝国は崩れかけていた(三世紀の危機)。235年から半世紀のあいだに、正式に認められた皇帝だけで20人を超え、その多くが部下の兵に殺された。北からはゴート人やアラマンニ人が国境を破って入り込み、東ではササン朝ペルシアが勢いを増した。260年には皇帝ウァレリアヌスがペルシアの捕虜になる(ローマ皇帝が捕らわれる)。
その混乱の中で、帝国は三つに割れた。西ではライン川を守る将軍ポストゥムスが自ら皇帝を名乗り、ガリア、ブリタンニア、ヒスパニアを治めるガリア帝国を作った。東では、シリアの隊商都市パルミラの君主オダエナトゥスがペルシアを押し返して東方を守り、その死後は妃のゼノビアが幼い息子を立てて実権を握った(ゼノビアのパルミラ)。ゼノビアの軍はエジプトを取り、小アジアにまで進んだ。ローマの皇帝が実際に治めていたのは、イタリアとバルカン、北アフリカの一部だけになっていた。

アウレリアヌスは、ドナウ川沿いの属州の、身分の低い家に生まれたとされる。兵卒から叩き上げ、騎兵の指揮官として名を上げた。270年、皇帝クラウディウス2世が疫病で亡くなると、ドナウの軍に推されて皇帝になった。
最初の仕事は、イタリアに入り込んだゲルマン人を追い出すことだった。一度はプラケンティアの近くで敗れ、ローマの都が恐慌に陥った。勝って押し返したあと、アウレリアヌスはローマの周りに新しい城壁を築かせた。長さはおよそ19キロ。何百年も城壁を必要としなかった帝都が、自分の身を守らなければならなくなった。城壁はいまもローマの町に多くが残っている。同じころ、都の造幣所の職人たちが反乱を起こし、鎮圧の戦いで数千人が死んだと伝えられる。

ドナウ川の北のダキア属州は、トラヤヌスが征服して以来ローマのものだったが(ダキア戦争)、アウレリアヌスはここを手放し、住民と軍を川の南へ移した。守りにくい突出部を捨てて、守る線を短くする判断だった。
272年、アウレリアヌスは東へ向かった。シリアのインマエとエメサでパルミラの軍を破り、パルミラを囲んだ。ゼノビアはラクダでペルシアへ逃れようとしたが、ユーフラテス川で捕らえられた。翌年、パルミラが再び背くと、アウレリアヌスは引き返して町を攻め落とし、略奪にまかせた。砂漠の交易で栄えた町は、二度と元に戻らなかった。
274年には西に転じ、ガリア帝国の皇帝テトリクスとカタラウヌムの平原で戦った。テトリクスは戦いの前から降伏を申し出ていた、と古代の著作は伝える。こうして14年ぶりに、帝国は一人の皇帝の下に戻った。ローマでの凱旋式では、黄金の鎖をつけたゼノビアと、ガリアの装束のテトリクスが行列を歩かされた。二人ともその後は命を許され、ゼノビアはローマ近郊で暮らしたとされる。
アウレリアヌスは、貨幣に「世界の回復者」と刻ませた。粗悪になっていた銀貨を立て直そうとし、都の民への配給には豚肉を加えた。そしてローマに、無敵の太陽神(ソル・インウィクトゥス)の壮大な神殿を建て、その祭司団を置いた。軍の兵士に広く信じられた太陽神を、帝国をまとめる神に据えようとしたとみられている。のちに12月25日が「無敵の太陽の誕生日」として祝われ、それがクリスマスの日付に関わったという説がよく語られるが、この祭日をアウレリアヌスが定めたことを示す同時代の記録は無く、異論も多い。

275年、アウレリアヌスはペルシア遠征に向かう途中、トラキアで側近の将校たちに殺された。秘書が罪を問われるのを恐れ、処刑予定の者の名簿を偽造して将校たちに見せたため、彼らが先に手を下したと伝えられる。在位は5年あまりだった。
統一は戻ったが、皇帝が次々に殺される時代はまだ続いた。帝国の仕組みそのものを作り直したのは、9年後に即位したディオクレティアヌスで、彼は皇帝を4人に分ける四分統治の開始によって、一人では守りきれない帝国を治めようとした。アウレリアヌスの5年は、帝国がまだ一つに戻れることを示した最後の力業だった。