ヘロデの神殿
概要
第二神殿を土台から建て直した。神殿の丘を倍に広げ、擁壁を築いた。その西側の壁が「嘆きの壁」。完成はAD64年で、6年後にローマが壊した。イエスが歩いたのは、この工事中の神殿になる。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
ヘロデ大王BC73年頃–BC4年 · 王本文
エルサレムの神殿は、ユダヤの人々にとって、神が地上で住まう唯一の場所だった。最初の神殿は紀元前10世紀にソロモンが建てたと伝えられ(ソロモンの神殿)、紀元前586年に新バビロニアによって破壊された。バビロン捕囚から戻った人々は、紀元前516年ごろに第二神殿を建てたが、ソロモンの神殿に比べて見劣りがしたと伝えられる。
紀元前37年、ローマの後ろ盾でユダヤの王になったヘロデ大王は、イドマヤ人の家の出で、ユダヤの人々からは王家の正統な血筋ではないと見られていた。ヘロデはローマの皇帝アウグストゥスに忠実に仕える一方、エルサレムやカエサリア、マサダなどで大きな建設を次々に進め、その頂点として神殿の建て直しを企てた。歴史家ヨセフスは、着工をヘロデの治世の18年目と書いており、これは紀元前20年から19年ごろにあたる(別の著作では15年目と書いていて、記述は一致しない)。
祭司や人々は、古い神殿を壊したまま、新しいものが建たないのではないかと恐れた。ヨセフスによれば、ヘロデは石材や木材など必要な材料をすべて揃えてから工事を始め、1000台の荷車と1万人の職人を用意した。至聖所などの聖域には祭司しか入れないため、1000人の祭司に石工と大工の技術を学ばせて工事にあたらせた。神殿の本体は1年半で、周りの回廊と中庭は8年で一応できあがったとヨセフスは書く。しかし工事はその後も長く続いた。
ヘロデは神殿そのもの以上に、それが建つ丘を大きく作り変えた。モリヤの丘の斜面の周りに巨大な擁壁を築き、内側を埋め立てて、丘の頂を広大な四角い台地にした。台地の広さはおよそ14万平方メートルあり、もとの広さの倍ほどになったとされる。擁壁の石には、一つで数十トンから、最大のものでは数百トンと推定されるものもある。西側の擁壁の一部が、いまユダヤ教徒が祈りを捧げる「嘆きの壁」である。台地の南の端には「王の回廊」と呼ばれる長い列柱の建物が建てられた。

台地の上は、外から内へ聖さの段階で区切られていた。いちばん外側の「異邦人の庭」には、ユダヤ人でない者も入ることができた。その内側には、境の柵の上に、異邦人がこれより内に入れば死をもって罰せられると、ギリシア語とラテン語で記した警告の板が掲げられていた。ギリシア語の板は、1871年に完全なものが、1935年に破片が見つかっている。さらに内側に女性の庭、男性だけが入るイスラエルの庭、祭司の庭があり、その奥に神殿の本体と、大祭司が年に一度だけ入る至聖所があった。南西の角の上には、安息日の始まりと終わりをラッパで知らせる場所があり、そのことを刻んだ石が、1968年からの発掘で下の通りから見つかった。
福音書によれば、イエスは神殿の境内で両替商や鳩を売る人々の台を倒した。この出来事は異邦人の庭で起きたと考えられている。ヨハネの福音書では、イエスが「この神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせる」と言うと、人々は「この神殿は建てるのに46年かかった」と返す。ヘロデの着工から数えると、紀元後20年代の終わりにあたり、神殿はまだ工事の途中だった。
神殿がすべて完成したのは、紀元64年ごろとされる。ヨセフスは、工事が終わって職を失った1万8000人の職人のために、エルサレムの道に石を敷く仕事が与えられたと書いている。それからわずか2年後の66年、ユダヤはローマに対して反乱を起こした。70年、ティトゥスが率いるローマ軍がエルサレムを落とし、8月、神殿は炎に包まれた(エルサレム神殿の破壊)。ヨセフスは、ティトゥスは神殿を残すよう命じたのに兵士が火を放ったと書いているが、別の伝えではティトゥス自身が破壊を望んだとされ、ローマに仕えたヨセフスの記述には主人をかばう意図があったと見る研究者も多い。

神殿の本体は跡形もなくなったが、ヘロデが築いた台地と擁壁は残った。7世紀の末には、その台地の上にイスラームの岩のドームが建てられる。ユダヤ教徒にとっての神殿の丘、イスラーム教徒にとっての高貴な聖域は、いまも同じ台地の上にあり、聖地をめぐる争いの中心であり続けている。