ガイセリック
概要
足が不自由で、口数が少なく、欲が深かった、とヨルダネス。50年王だった。スペインからアフリカへ、カルタゴ、シチリア、サルデーニャ、ローマ略奪。皇帝の未亡人と娘を連れ帰った。ローマとビザンツの艦隊を二度焼いた。アリウス派。死ぬまで負けなかった。
所属
ヴァンダル王国関わったできごと(2)
ガイセリックのカルタゴ占領AD439年10月19日 · 王ヴァンダルのローマ略奪AD455年 · 王本文
ガイセリックは、ゲルマン系のヴァンダル族を率いてイベリア半島から北アフリカへ渡り、カルタゴを都とする王国を築いた王である。ゲンセリックとも呼ばれる。約50年にわたって王位にあり、地中海の西半分を艦隊で支配し、455年にはローマを略奪した。西ローマ帝国の最後の数十年を、アッティラと並んで、あるいはそれ以上に揺さぶった人物である。

389年ごろ、ヴァンダル族の王ゴディギセルと奴隷の女性との間に生まれた。ヴァンダル族は、406年の暮れにライン川を越えてローマ帝国に入り、ガリアを荒らしたのちイベリア半島に移り住んでいた。428年、異母兄の王グンデリックが死ぬと、ガイセリックが王になった。
6世紀の歴史家ヨルダネスは彼を、中背で、落馬して足が不自由、深く考えて口数が少なく、贅沢を嫌い、怒ると激しく、欲が深く、他の部族を動かして争わせることに長けていた、と描いている。
王になった翌年の429年5月、ガイセリックはヴァンダル族とアラン族の民を引き連れて、ジブラルタル海峡を渡った。のちの記録によれば、その数は女性や子どもを含めて8万人だった。北アフリカは、穀物とオリーブ油で西ローマ帝国を養う最も豊かな地方だった。アフリカ総督ボニファティウスが、宮廷との争いの中でヴァンダル族を招き入れたという話もあるが、確かではない。ヴァンダル族は西へ東へと進み、430年には港町ヒッポを包囲した。その包囲のさなかに、町の司教アウグスティヌスが世を去っている。
ガイセリックは、いったんローマと条約を結んで一部の土地を認めさせたが、439年10月、不意を突いて北アフリカ最大の都市カルタゴを奪った(ガイセリックのカルタゴ占領)。カルタゴの港と造船所を手に入れたヴァンダル族は、海に乗り出した。シチリアやサルデーニャ、イタリアの海岸を襲い、地中海の西半分の海上交通を押さえた。ローマの穀物と税の大きな源が、こうして断ち切られた。

442年、西ローマの皇帝ウァレンティニアヌス3世はガイセリックと条約を結び、アフリカの最も豊かな地域の支配を認めた。ガイセリックの息子フネリックは、皇帝の娘エウドキアと婚約した。フネリックにはすでに西ゴート王の娘である妻がいたが、ガイセリックは彼女が自分に毒を盛ろうとしたと言い立て、鼻と耳を削いで父のもとに送り返したと伝えられる。
455年、ウァレンティニアヌス3世が暗殺され、後を継いだペトロニウス・マクシムスは、先帝の未亡人エウドクシアを妻にし、エウドキアとフネリックの婚約も破棄した。ガイセリックはこれを口実に艦隊を率いてイタリアに向かった。ある船出のとき、舵取りにどこへ向かうのかと問われて、神の怒りを受けている者たちのところへ、と答えたという話がプロコピオスの歴史書にある。ヴァンダル軍が迫ると、マクシムスは逃げる途中で殺された。ローマの城門の前で教皇レオ1世がガイセリックを出迎え、町を焼かず、住民を殺さないよう頼んだと伝えられる。ヴァンダル軍は14日間にわたってローマの財宝を運び出した(ヴァンダルのローマ略奪)。エウドクシアと二人の娘も捕虜としてカルタゴへ連れ去られ、エウドキアはのちにフネリックの妻になった。

ローマ側も黙っていたわけではない。460年、西ローマの皇帝マヨリアヌスがイベリア半島の港に艦隊を集めたが、ガイセリックは先手を打ってこれを焼き払った。468年には、東ローマの皇帝レオ1世と西の皇帝が共同で、千隻を超える大艦隊を送った。帝国の財政を傾けるほどの莫大な費用をかけた遠征だった。ガイセリックは交渉で時間を稼ぎ、風向きが変わるのを待って、カルタゴの近くのボン岬の沖で、敵の船団に火船を突っ込ませた。密集していた艦隊は燃え上がり、遠征は惨敗に終わった。
474年、ガイセリックは東ローマの皇帝ゼノンと和約を結び、ヴァンダル王国の支配はローマにも認められた。476年に西ローマの皇帝が廃されると、イタリアを治めるオドアケルと交渉し、貢納と引き換えにシチリアの大部分を引き渡した。そして477年1月25日、カルタゴで死んだ。90歳に近かった。

ヴァンダル族は、キリストを神より下の存在と見るアリウス派のキリスト教を信じていた。ガイセリックはカトリックの教会から財産を取り上げ、多くの司教を追放した。その後の迫害の様子は、司教ウィクトルの書いた記録に詳しい。北アフリカのローマ系の住民の大多数はカトリックで、この溝は最後まで埋まらなかった。
ガイセリックは、王位を息子ではなく、王家の中で最も年長の男子が継ぐという決まりを定めた。幼い王が立つのを防ぐためだったが、かえって王族どうしの争いを招いた。後継の王たちの下で王国は弱まり、533年、東ローマのユスティニアヌス1世が送った将軍ベリサリウスによって、わずか一年足らずで滅ぼされた(ユスティニアヌスの再征服)。

ヴァンダル族の名は、のちに思わぬ形で残った。フランス革命のさなかの1794年、ある聖職者が、革命派による教会や美術品の破壊を、ヴァンダル族のローマ略奪になぞらえて「ヴァンダリズム」と呼んだ。以後、この言葉は文化財や公共物を壊す行為を指すようになった。実際のローマ略奪では、ヴァンダル軍は建物を焼かずに財宝を運び出したとされる。