人物

アウグストゥス

Imperator Caesar Divi Filius Augustus
BC63年9月23日 – 14年8月19日(享年75)
共和政ローマ/ローマ帝国重要度 5

概要

カエサルの養子。アクティウムで勝ち、共和政の形を残したまま帝政を始めた。

別名

オクタウィアヌス、オクタヴィアヌス

所属

共和政ローマ/ローマ帝国

関わったできごと(6)

第二回三頭政治と追放告示BC43年11月 · 三頭フィリッピの戦いBC42年10月23日 · 勝者アクティウムの海戦BC31年9月2日 · オクタウィアヌス側 · 総指揮元首政の始まり(アウグストゥスの称号)BC27年1月16日 · アウグストゥスの名を得たクルスス・プブリクスBC20年頃 · 整えたウィギレスAD6年 · 創設

本文

紀元前63年9月23日、ローマに生まれた。名はガイウス・オクタウィウス。父はイタリアの地方都市の裕福な家の出で、一族で初めて元老院に入った「新人」だった。母アティアはガイウス・ユリウス・カエサルの姪にあたる。父は彼が4歳のときに亡くなった。

アウグストゥス像
アウグストゥス像Wikimedia Commons Till Niermann · Public domain

12歳のとき、祖母ユリアの葬儀で弔辞を述べ、大伯父カエサルの目に留まったとされる。体が弱く、たびたび病に倒れたが、カエサルは彼を手元に置いて育てた。紀元前45年には、病み上がりの体でヒスパニアのカエサルの陣営まで駆けつけている。

紀元前44年3月のカエサル暗殺の報を受けたとき、18歳だった。アドリア海の対岸アポロニアで、カエサルの東方遠征に備えて学んでいた。遺言で養子に指名され、財産の大部分の相続人とされたことを知ると、周囲の反対を押し切って学業を中断し、イタリアへ渡った。名をガイウス・ユリウス・カエサルと改める。オクタウィアヌスは、現代の歴史家が区別のために使う呼び名である。

カエサル暗殺に関わる図版:Vincenzo Camuccini - La morte di Cesare (cropped 3-2)
カエサル暗殺Wikimedia Commons Vincenzo Camuccini · Public domain

体は弱く、戦場での指揮は苦手だった。実際の軍事は、同い年の親友アグリッパが担っている。彼が優れていたのは、待つことと、名前の使い方だった。「カエサルの息子」という名は、カエサルに従った退役兵に対して効いた。私財を投げ打って兵を集め、カエサルの部下だったマルクス・アントニウスに対抗した。

まず元老院の側についてアントニウスと戦い、その後、元老院を見限ってアントニウス、レピドゥスと手を結んだ。紀元前43年の第二回三頭政治で、三人は政敵を名簿に載せて殺し、その財産を奪った(第二回三頭政治と追放告示)。弁論家キケロもその犠牲になった。カエサルの暗殺者たちは、翌年ギリシアのフィリッピの戦いで討たれた。このとき彼は病で陣を離れていた。

第二回三頭政治と追放告示に関わる図版:Antony with Octavian aureus
第二回三頭政治と追放告示Wikimedia Commons You may select the license of your choice. · Public domain

その後、アントニウスは東方を、彼は西方を受け持った。イタリアでは退役兵に土地を与えるために農民の土地を取り上げ、恨みを買った。地中海の海上をポンペイウスの息子に押さえられて苦戦したが、アグリッパが艦隊を作り直して勝った。レピドゥスは失脚させられた。

アントニウスがクレオパトラ7世と結んで東方に留まると、彼はそれを宣伝に使った。ローマを捨てて外国の女王に溺れた男、という像を広め、紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの艦隊を破った。翌年エジプトを手に入れ、カエサリオンを殺させた。30年余り続いた内戦が終わった。

アクティウムの海戦に関わる図版:Medinaceli Actium reliefs 06
アクティウムの海戦Wikimedia Commons Mark Landon · CC BY 4.0

権力を握ったあと、名乗りを慎重に選んだ。紀元前27年1月、彼は非常時の権限をすべて元老院と民会に返すと宣言した。元老院はそれに応えて、「尊厳なる者」を意味するアウグストゥスの称号を贈り、軍団の大部分が置かれた属州の統治を彼に委ねた(元首政の始まり(アウグストゥスの称号))。王でも独裁官でもなく、「第一の市民(プリンケプス)」と名乗った。カエサルが王になろうとしていると疑われて殺されたことを、彼は忘れていなかった。

共和政の制度を残したまま、実質を握った。執政官も元老院も民会も残り、選挙も行われた。だが軍の指揮権、護民官の職権、属州の統治権を彼一人が持ち続けた。自らの業績を書き残した碑文で、権威では万人に勝ったが、権限は同僚より多くは持たなかった、と書いている。

ガイウス・ユリウス・カエサル
ガイウス・ユリウス・カエサルWikimedia Commons Nicolas Coustou · Public domain

40年以上統治した。ばらばらだった軍を、28の軍団からなる常備軍に作り替え、兵の勤務年数と退職金を定めた。首都には皇帝の身辺を守る親衛隊を置いた。国境を固め、属州の人口と財産を調べさせ、税の仕組みを整えた。街道と水道を整え、ローマの町を消防と警察の組織で守らせた。友人マエケナスを通じて、ウェルギリウス、ホラティウスら詩人を庇護した。ウェルギリウスの『アエネイス』は、ローマの起源を語りながら、アウグストゥスの時代を新しい黄金時代として讃えている。「煉瓦のローマを受け取り、大理石のローマを残した」と言ったと伝わる。

一方で、自由に書く詩人には厳しかった。恋の手ほどきを歌ったオウィディウスは、理由のはっきりしないまま黒海のほとりへ追放され、そこで死んでいる。風紀を正すための結婚や姦通に関する法律を作ったが、その法で実の娘ユリアを流刑にしなければならなかった。

アクティウムの海戦
アクティウムの海戦Wikimedia Commons Laureys a Castro · Public domain

後継者選びには苦しんだ。息子はいなかった。娘ユリアを甥のマルケッルスに嫁がせたが、マルケッルスは若くして死んだ。次にユリアをアグリッパに嫁がせ、生まれた孫ガイウスとルキウスを養子にしたが、アグリッパも、二人の孫も相次いで死んだ。最後に残ったのが、妻リウィアの連れ子である継子ティベリウスだった。

晩年の紀元9年、ゲルマニアの森で将軍ウァルスの率いる3個軍団が待ち伏せにあって全滅した(トイトブルク森の戦い)。彼は何か月も髪も髭も切らず、壁に頭を打ちつけて「ウァルスよ、軍団を返せ」と叫んだとスエトニウスは伝える。以後ローマはライン川の東への拡大をあきらめた。

トイトブルク森の戦いに関わる図版:Epitaph des Marcus Caelius
トイトブルク森の戦いWikimedia Commons Agnete · Public domain

紀元14年8月19日、南イタリアのノラで死んだ。満75歳だった。最期に友人たちに、人生という芝居で自分は役をうまく演じたか、うまく演じたなら拍手を、と言ったとスエトニウスは書いている。彼は神として祀られ、8月はその名で呼ばれるようになった。

彼が始めた体制は元首政と呼ばれ、その後200年余り、地中海世界に比較的長い平和が続いた。後の皇帝たちはみな、カエサルとアウグストゥスの名を称号として名乗った。共和政の形を残したまま帝政を始めたその手法は、権力をどう見せ、どう隠すかの古典として読まれ続けている。

動画(1)

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