できごと

第二次ポエニ戦争

Second Punic War
BC218年 – BC201年
期間を持つできごと重要度 5
BC218年

概要

ハンニバルのイタリア侵入からザマの敗北まで、17年に及んだローマとカルタゴの戦争。

本文

第一次ポエニ戦争に敗れたカルタゴは、シチリアを失い、重い賠償金を背負った。さらに傭兵の反乱に苦しむ隙に、ローマにサルディニアまで奪われる。将軍ハミルカル・バルカは新しい足場をイベリア半島(ヒスパニア)に求め、銀山と兵を手に入れた。娘婿のハスドルバルが後を継いで新カルタゴ(今のカルタヘナ)を築き、ローマとはエブロ川を境に互いの勢力圏を分けることを約した。

紀元前221年、ハミルカルの子ハンニバル・バルカが26歳前後で全軍を引き継いだ。2年後、彼はエブロ川の南にあってローマと結んでいた町サグントゥムを8か月かけて落とした。ローマは使節をカルタゴに送り、引き渡しを求めたが拒まれ、紀元前218年に戦争が始まった。

ハンニバル
ハンニバルWikimedia Commons Sébastien Slodtz (French, 1655–1726) · Public domain

ローマは海を押さえており、戦場はヒスパニアとアフリカになると考えていた。ハンニバルはその裏をかき、陸路でピレネーとアルプスを越えてイタリアへ入った。雪と敵対する部族のために多くを失い、イタリアに降りたときの兵は歩兵2万、騎兵6千ほどだったとポリュビオスは書く。連れてきた37頭の象も、大半は最初の冬を越せなかった。

それでも野戦では勝ち続けた。その年の冬にトレビアの戦い、翌紀元前217年にトラシメヌス湖の戦いでローマ軍を破る。ローマは独裁官にファビウス・マクシムスを立てた。ファビウスは会戦を避け、ハンニバルの後をつけて補給を妨げる持久の策をとった。「ぐずぐず屋(クンクタトル)」と揶揄されたこのやり方は、市民には弱腰に見えた。

トラシメヌス湖の戦いに関わる図版:Sylvestre Ducar decapite Flaminius (Trasimene)
トラシメヌス湖の戦いWikimedia Commons Joseph-Noël Sylvestre · Public domain

紀元前216年、ローマは方針を捨て、8万を超える大軍で決戦に出た。カンナエの戦いで、ハンニバルは中央をわざと押させて両翼で包み込み、ローマ軍を壊滅させた。死者は5万前後とされるが、史料によって数字は大きく違う。このあと南イタリアの大都市カプアがカルタゴ側に寝返り、シチリアのシュラクサイも離れ、マケドニア王フィリッポス5世もハンニバルと同盟を結んだ。

だがローマは講和に応じなかった。そしてハンニバルには、ローマを落とす手立てが無かった。攻城兵器も、それを運び支える補給線も無い。本国カルタゴからの援軍もわずかだった。ローマ同盟の中核をなすラテン人の町々はほとんど離れず、ハンニバルは勝ってもその土地を固められないまま、南イタリアを転々とすることになる。

アルプス山脈を越えるハンニバルの軍
アルプス山脈を越えるハンニバルの軍Wikimedia Commons Heinrich Leutemann · Public domain

ローマは時間を使って取り返した。紀元前212年、マルケッルスがシュラクサイを落とし、守りの仕掛けを作ったアルキメデスもこのとき死んだと伝えられる(シュラクサイ攻囲とアルキメデスの死)。紀元前211年にはカプアを包囲し、ハンニバルは包囲を解かせようとローマの近くまで兵を進めたが、ローマは動じず、カプアは降伏した。

戦局を決めたのはイタリアの外だった。ヒスパニアで戦死した父と伯父の後を継いだ若い大スキピオは、紀元前209年に新カルタゴを奇襲で落とした。ハンニバルの弟ハスドルバルは兄を助けるためにアルプスを越えたが、紀元前207年のメタウルス川の戦いで敗れて死んだ。その首はハンニバルの陣に投げ込まれたとリウィウスは書いている。

クィントゥス・ファビウス・マクシムス像
クィントゥス・ファビウス・マクシムス像Wikimedia Commons schurl50 ( User:schurl50 ) · Public domain

スキピオはヒスパニアからカルタゴ勢を追い出し、紀元前204年にアフリカへ渡った。ヌミディアの王子マシニッサを味方につけ、カルタゴの周りを荒らす。本国を脅かされたカルタゴは、ハンニバルを呼び戻した。16年ぶりにアフリカの土を踏んだハンニバルは、紀元前202年のザマの戦いで、ヌミディアの騎兵を得たスキピオに敗れた。

翌年の講和で、カルタゴは海外の領土をすべて失い、軍船は10隻に制限され、銀1万タラントンを50年かけて払うことになった。ローマの許しなく戦争をすることも禁じられた。地中海の西半分はローマのものになり、ローマの目はやがて東のマケドニアへ向かう。

マシニッサ
マシニッサWikimedia Commons No machine-readable author provided. Numidix assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

ハンニバル自身はその後も生き延びた。カルタゴの最高職に就いて財政を立て直したが、ローマに疎まれて亡命し、東方のセレウコス朝などに身を寄せた。最後はローマへの引き渡しを迫られて、毒をあおって死んだと伝えられる(ハンニバルの死)。宿敵スキピオも、同じ頃に政争に敗れてローマを離れ、失意のうちに死んでいる。

この戦争について私たちが知っていることの大半は、ギリシア人のポリュビオスと、ローマ人のリウィウスの著作による。ハンニバルの陣にはギリシア人の書記がいて従軍記を書いたと伝えられるが、伝わっていない。カルタゴの側から書かれた記録はほぼ失われており、ハンニバルの意図や本国との関係は、勝者の側の記述から推し量るしかない。

『ザマの戦い』(画:コルネリス・コルト, 1567)
『ザマの戦い』(画:コルネリス・コルト, 1567)Wikimedia Commons Cornelis Cort · Public domain

17年のうち16年、戦場はイタリアだった。戦術で勝ち続けた側が、戦争に負けた。会戦の勝ち負けよりも、同盟を保ち、兵を補い続ける力のほうが長い戦争を決める、という教訓として、この戦争は後世の軍人や歴史家に繰り返し読まれてきた。

出典(1)

塩野七生 『ローマ人の物語』II ハンニバル戦記

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