キケロ
概要
弁論家・政治家。共和政の擁護に回り、アントニウスの手で殺された。
所属
共和政ローマ関わったできごと(3)
カティリナの陰謀BC63年 · 執政官クロディウスの殺害BC52年1月18日 · 弁護第二回三頭政治と追放告示BC43年11月 · 殺された本文
マルクス・トゥッリウス・キケロは紀元前106年1月3日、ローマの南東にある田舎町アルピヌムで、騎士身分の家に生まれた。騎士身分は裕福だが、元老院の名門の貴族ではない。父は息子たちをローマに出して教育を受けさせ、キケロは弁論術と法律、ギリシアの哲学を学んだ。一族から執政官を出したことの無い家の者は「新人」と呼ばれ、政界の頂点に上るのはきわめて難しかった。キケロはその壁を、言葉の力だけで越えようとした。
20代半ば、独裁官スッラの権勢が頂点にあった時代に、キケロは父殺しの罪に問われた男の弁護を引き受けた。告発の背後には、スッラが寵愛する解放奴隷の財産の横領があった。それをあえて法廷で指摘して勝ち、名を上げた。その後、体を壊したこともあって、アテナイとロドス島で2年ほど学び、弁論の技を磨いた。紀元前70年には、シチリアの属州で数年にわたって略奪を重ねた総督ウェッレスを告発した。当代一の弁論家ホルテンシウスが弁護に立ったが、キケロが集めた膨大な証拠と証言が最初の審理で示されると、ウェッレスは判決を待たずに亡命した。
紀元前63年、43歳のキケロは、法の定める最も若い年齢で執政官に選ばれた(カティリナの陰謀)。この年、選挙に敗れた貴族カティリナが、借金に苦しむ者たちを集めて国家の転覆を企てた。キケロは元老院で、いつまで、カティリナよ、我々の忍耐につけこむのか、と始まる演説で彼を糾弾し、都から追い出した。都に残った共謀者5人は捕らえられ、元老院の議論の末、キケロの指揮で裁判を経ずに処刑された。キケロは祖国の父とたたえられ、生涯この年を誇り続けた。自分の執政官の年を詩にまでしたため、周囲を辟易させたほどである。

だが、ローマ市民を裁判なしに処刑したことは、彼の弱みになった。紀元前60年、ポンペイウス、ガイウス・ユリウス・カエサル、クラッススの3人が手を結ぶと(第一回三頭政治)、キケロは誘いを断った。紀元前58年、カエサルの後押しを受けた護民官クロディウスが、裁判なしにローマ市民を殺した者を追放する法を通し、キケロはギリシアへ逃れた。家は壊された。翌年に帰国を許されたものの、その後は三頭政治の力に従うほかなく、意に沿わない弁護も引き受けた。
紀元前49年、カエサルがルビコン川を渡って内戦が始まると(ルビコン渡河)、キケロは長く迷った末にポンペイウスの陣営に加わった。ポンペイウスが敗れると、カエサルは彼を許した。独裁のもとで政治の舞台を失ったキケロは、哲学の著作に向かった。紀元前45年に最愛の娘トゥッリアを亡くし、悲しみの中で書き続けた。死や神々、友情、老い、義務について、ギリシアの哲学をラテン語で語り直した著作が、わずか2年ほどの間に次々に生まれた。ラテン語には無かった哲学の言葉の多くを、彼が作った。

紀元前44年3月、カエサルが元老院で暗殺された(カエサル暗殺)。キケロは計画に加わっていなかったが、ブルートゥスらの行動を歓迎した。だがカエサルの後継者を名乗る執政官のマルクス・アントニウスが力を握ると、キケロはアントニウスを攻撃する演説を次々に行った。かつてアテナイのデモステネスがマケドニア王を弾劾した演説にならって、フィリッピカと呼ばれる14の演説である。彼はカエサルの養子である19歳のオクタウィアヌスを、アントニウスに対抗する駒として使えると考えた。
その読みは外れた。紀元前43年秋、オクタウィアヌスはアントニウス、レピドゥスと手を組んで第二回の三頭政治を結び、政敵を処刑する名簿を公示した(第二回三頭政治と追放告示)。キケロの名はアントニウスの求めで載せられた。キケロは海路で逃れようとしてためらい、12月7日、イタリア中部の海岸の別荘の近くで追っ手に追いつかれた。彼は輿を止めさせ、自ら首を差し出して斬られたと伝えられる。63歳だった。その首と、フィリッピカを書いた手は、ローマの広場の演壇にさらされた。

キケロを特別な存在にしているのは、残された言葉の量である。58の演説、多くの哲学と弁論術の著作、そして友人アッティクスや弟、仲間たちとやりとりした900通を超える手紙が伝わる。手紙からは、共和政の末期の政治が日々どう動いていたか、一人の政治家が何を恐れ、何に迷っていたかが、生々しく読み取れる。彼の判断はしばしば揺れ、虚栄心も強かった。だが、元老院を中心とする共和政を守るという一点では、最後まで変わらなかった。
中世から近代のヨーロッパで、キケロのラテン語は散文の手本とされた。14世紀にペトラルカがアッティクス宛の手紙を再発見したことは、ルネサンスの人文主義の出発点の一つになった。後年、皇帝となったアウグストゥス(オクタウィアヌス)は、孫がキケロの本を読んでいるのを見て、学識ある人で、祖国を愛した人だった、と言ったとプルタルコスは伝えている。