できごと

ランゴバルドのイタリア侵入

Lombard invasion of Italy
AD568年
重要度 4
ランゴバルドのイタリア侵入に関わる図版:Italien zur Langobardenzeit
Italien zur Langobardenzeit Wikimedia Commons Johann Gustav Droysen · Public domain

概要

ユスティニアヌスが20年かけて取り戻したイタリアを、皇帝の死の3年後に別のゲルマン人が北から取った。半島は以後1300年、一つの国にならない。

場所

ラヴェンナ
44.42°N 12.20°E · イタリア・エミリア=ロマーニャ州

本文

476年に西ローマ帝国が倒れたあと、イタリアはゲルマン人の王たちに治められた。東ゴートの王テオドリックのもとで、ローマ人の元老院も役人も残り、半島は意外なほど平穏だった(東ゴート王国)。コンスタンティノープルの東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、これを帝国の失われた西半分と見ていた。535年、彼はイタリアに軍を送った(ユスティニアヌスの再征服)。

戦争は、20年近くに及んだ。名将ベリサリウスがいったんラヴェンナを落としたものの、東ゴートの側はトティラ王のもとで巻き返し、ローマの町は何度も持ち主が変わった。最後に宦官の将軍ナルセスが大軍を率いて東ゴートを打ち破り、554年、ユスティニアヌスはイタリアの統治の定めを出した。北の一部の町では、その後も560年代の初めまで抵抗が続いた。

勝った後のイタリアは、荒れ果てていた。長い戦争で町は焼かれ、畑は荒れ、ローマの人口は激減した。そこへ540年代から疫病が繰り返し襲った(ユスティニアヌスの疫病)。帝国の財政も、東のペルシアとの戦争と疫病で疲れきり、イタリアに大きな軍を置いておく余裕は無かった。565年、ユスティニアヌスは死んだ。

ユスティニアヌスの疫病に関わる図版:Plaguet03
ユスティニアヌスの疫病Wikimedia Commons Josse Lieferinxe · Public domain

そのころ、ドナウ川の中流、いまのハンガリーの西部にあたるパンノニアに、ランゴバルドと呼ばれるゲルマン人がいた。長いあごひげを意味する名だと伝えられる。王アルボインは、東から来た遊牧民アヴァールと手を組んで、隣の部族ゲピドを滅ぼした。ゲピドの王を自ら討ち、その頭蓋骨で杯を作り、王の娘ロザムンドを妻にしたという。だが、強力なアヴァールと隣り合っていることは、危険でもあった。

568年の春、アルボインは部族を丸ごと率いて、パンノニアを出た。戦士だけではない。女も子どもも老人も、家畜と荷車とともに移動した。仲間に加わったサクソン人の一団、ゲピドの生き残り、ブルガール人なども混じり、全体で10万人を超えたとも推定される。故郷の土地は、アヴァールに明け渡された。

パンノニア(現スロバキア・ハンガリー付近)における分布(6世紀前半)
パンノニア(現スロバキア・ハンガリー付近)における分布(6世紀前半)Wikimedia Commons WikiEditor2004 · CC0

ランゴバルドがイタリアに入ったのは、北東の山を越えてだった。のちの年代記には、ナルセスが新しい皇帝に冷遇されたのを恨んで、ランゴバルドを呼び込んだという話があるが、後から作られた話と考えられている。いずれにせよ、ランゴバルドは北イタリアを、ほとんど戦わずに取った。守るべき東ローマの軍が、そこにほとんどいなかったからだ。最初の町フォルム・ユリイ(いまのチヴィダーレ)にアルボインの甥が公として置かれ、翌569年にはミラノが落ちた。

ただ一つ、ティチーノ川のほとりの町パヴィアだけが、3年にわたって門を閉ざして抵抗した。572年に町が降伏すると、ランゴバルドはここを王国の都にした。ポー川の流れる北イタリアの平野が、王国の中心になった。

ランゴバルド史家パウルス・ディアコヌス(720〜799年頃)
ランゴバルド史家パウルス・ディアコヌス(720〜799年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アルボインは、その年のうちに殺された。ヴェローナでの宴で、王は妻ロザムンドに、彼女の父の頭蓋骨で作った杯で酒を飲むよう強いた、と8世紀のランゴバルドの歴史家パウルスは書く。ロザムンドは恨みを抱き、王の家臣と謀って、眠っている王を殺させた。物語の細部には伝説の色があるが、王が暗殺されたことは確かだ。次の王もまもなく殺され、そのあと10年ほど、ランゴバルドは王を立てず、各地の公たちがそれぞれの土地を治めた。その間に、公たちは半島の中部と南部にまで進み、スポレートとベネヴェントに独立に近い大きな公国を作った。

東ローマ帝国の手に残ったのは、飛び飛びの土地だった。北東の海辺のラヴェンナと、その周りの地域。ローマとその周辺。ナポリ、半島の南の端、シチリアとサルデーニャ、そしてヴェネツィアの潟の島々。ラヴェンナには、皇帝の代理として軍と行政を一手に握る総督が置かれた。ランゴバルドの土地と東ローマの土地が、まだら模様に入り組んで、半島は割れた。

ランゴバルドは、キリスト教の中でも異端とされたアリウス派を信じていた。ローマの教皇は、皇帝の助けも当てにできないまま、彼らと向き合わなければならなかった。やがてランゴバルドはカトリックに改宗し、ローマ人とも混じり合っていく。それでも、教皇とランゴバルドの王たちの緊張は続いた。8世紀、ランゴバルドがラヴェンナを取り、ローマに迫ると、教皇はアルプスの北のフランク王に助けを求める。ピピンがランゴバルドから取った土地を教皇に寄進し(ピピンの寄進)、774年にはカール大帝がランゴバルド王国を滅ぼした(ランゴバルド王国の滅亡)。

ピピンの寄進に関わる図版:La donacion de Pipino el Breve al Papa Esteban II
ピピンの寄進Wikimedia Commons English: A fresco painter from the school of Giovan Battista Ricci (c. 1537–1627); by the time the fresco was created, t · Public domain

王国は滅びても、半島の分裂は続いた。北はフランク、のちに神聖ローマ帝国の皇帝の支配と町々の自治、中部は教皇の国、南はビザンツ、イスラーム、ノルマン人と、支配者が入れ替わった。568年に割れた半島が、一つの国にまとまるのは、1861年のイタリア王国の成立(イタリア統一)を待たなければならない。

ランゴバルドの名は、いまも北イタリアの州の名、ロンバルディアに残っている。ロンドンの金融街の通りの名、ロンバード街も、中世にこの地方から来た金融業者たちにちなんでいる。

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