スッラ
概要
ローマに軍を入れて独裁官となり、政敵を名簿にして処断した。
所属
共和政ローマ関わったできごと(1)
スッラの独裁BC82年 · 当人本文
ルキウス・コルネリウス・スッラは紀元前138年、ローマで最も古い貴族の家柄の一つ、コルネリウス氏の一門に生まれた。だが彼の家は数代にわたって高い官職に就いておらず、落ちぶれていた。若い頃は貧しく、安い借家に住み、役者や芸人たちと酒を飲んで過ごしたとプルタルコスは書いている。継母や親しくしていた女性から遺産を受け継いだことで、ようやく政界に入る財産ができた。

紀元前107年、スッラは財務官として、北アフリカでヌミディア王ユグルタと戦うマリウスの軍に加わった(ユグルタ戦争)。スッラは隣国マウレタニアの王ボックスのもとへ危険を冒して乗り込み、娘婿のユグルタを裏切って引き渡すよう説き伏せた。戦争はこれで終わった。功績は総司令官のマリウスのものとされたが、スッラはユグルタを受け取る場面を自分の印章の指輪に彫らせ、生涯それを使った。二人の対立はここに始まったといわれる。
その後もスッラはゲルマン人との戦いで功を立て、イタリアの同盟市がローマ市民権を求めて立ち上がった同盟市戦争でも、目覚ましい働きをした。紀元前88年、50歳でようやく執政官となり、小アジアでローマ人を大量に殺させたポントスの王ミトリダテス6世と戦う指揮権を与えられた(ミトリダテス戦争)。

ところが、護民官のスルピキウスが民会を動かして、その指揮権を年老いたマリウスに移してしまった。スッラは、南イタリアで待機していた6個軍団の兵たちに訴えた。兵たちは、指揮官が代われば東方での戦利品を手にできなくなる。彼らはスッラに従い、ローマへ進軍した。ローマの将軍が、ローマ市民の軍隊を率いて、ローマの町に攻め入った最初の出来事である。将校たちは、財務官一人を除いて全員が従わずに去った。だが兵は従った。マリウスの軍制改革で、貧しい市民が職業の兵士になっていた。彼らにとって、給料と土地を約束してくれる指揮官のほうが、国家より身近だった。マリウスはアフリカへ逃れた。
スッラが東方へ向かうと、ローマではマリウスと執政官キンナが戻って、スッラの支持者たちを殺した。マリウスはまもなく死んだ。スッラはギリシアでアテナイを攻め落とし、ミトリダテスの軍を二度破って講和を結び、紀元前83年にイタリアへ戻った。内戦は1年余り続き、紀元前82年11月、ローマの城門の前の戦いで反対派を破った。捕虜となった数千人は、スッラの命令で虐殺された。そのとき元老院で演説していたスッラは、聞こえてくる叫び声に動揺する議員たちに、気にするな、罪人を罰しているだけだ、と言ったという。

スッラは、任期を定めない独裁官に就いた(スッラの独裁)。そして、国家の敵とする者の名を書いた名簿を、広場に貼り出した。名簿に載った者は誰でも殺してよく、殺した者には賞金が与えられ、財産は没収された。その子や孫は官職に就くことを禁じられた。殺された者は、元老院議員だけで数十人、騎士身分では千人を超えたともいわれる。財産目当てに名簿に名を加えさせる者も出た。マリウスの妻の甥で、マリウス派のキンナの娘を妻としていた若いガイウス・ユリウス・カエサルも危うく殺されかけ、とりなしを受けたスッラは、あの若者の中には多くのマリウスがいる、と言ったと伝えられる。
一方でスッラは、元老院を中心とする共和政の立て直しを図った。元老院の定員を300人から600人に倍増し、自分の支持者や騎士身分の者で埋めた。グラックス兄弟以来(ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺)、民会を動かして元老院に対抗する拠点となっていた護民官の権限を大きく削り、護民官を務めた者がより上の官職に就けないようにした。官職に就く順序と年齢を法で定め、裁判の陪審を元老院議員の手に戻した。自分のような将軍が二度と現れないようにするための改革だった。

紀元前79年、スッラはすべての権力を手放して引退し、ナポリ湾の近くの別荘で回想録を書いて暮らした。翌紀元前78年、60歳で病死した。彼は国葬で送られ、マリウスの遺骨を暴いたことを思い、自分の遺体を火葬にさせた。墓には、友には誰よりも善く、敵には誰よりも悪く報いた、という言葉が刻まれたとプルタルコスは伝えている。
スッラの改革は長くはもたなかった。10年もたたない紀元前70年、彼の部下だったポンペイウスらの手で、護民官の権限は元に戻された。何よりも、軍を率いてローマに入れば、権力を握れることを、スッラ自身が示してしまっていた。スッラの死から30年足らずの後、カエサルはルビコン川を渡る。共和政を立て直そうとした本人が、共和政を壊すやり方の手本を残したのである。