できごと

三世紀の危機

Crisis of the Third Century
235年 – 284年
期間を持つできごと重要度 5
235年

概要

50年で20人を超える皇帝が立ち、疫病と内戦と侵入が重なった。帝国は分裂の一歩手前まで行く。

本文

2世紀のローマ帝国は、「五賢帝」の時代と呼ばれる長い安定を経験した。だが、その終わりごろから陰りが見えはじめる。疫病が広がり、北の国境ではゲルマン系の諸部族の圧力が強まった。3世紀の初めのセウェルス朝の皇帝たちは、兵士の給料を大幅に引き上げて軍の支持をつなぎとめた。212年のカラカラ帝の勅令で、帝国内のほぼすべての自由人にローマ市民権が与えられたのも、この時代である。軍が皇帝を支え、皇帝が軍に報いるという関係が、帝国の土台になっていた。

235年、ライン川の前線で、皇帝セウェルス・アレクサンデルが自分の兵士たちに殺された。ゲルマン人と戦わずに金で和を買おうとしたことが、兵の怒りを買ったとされる。兵たちは、トラキア出身の叩き上げの軍人マクシミヌスを皇帝に担いだ。元老院の議員でもない、一兵卒から身を起こした男が皇帝になったのは初めてだった。ここから、およそ50年に及ぶ混乱が始まる。

ローマ帝国の最大版図(117年頃)ローマ帝国領(深緑)、係争地(緑)、一時的な征服地(黄緑)
ローマ帝国の最大版図(117年頃)ローマ帝国領(深緑)、係争地(緑)、一時的な征服地(黄緑)Wikimedia Commons Cplakidas · Public domain

235年から284年までの約50年で、皇帝を名乗った人物は20人を超える。数え方によって違うが、元老院に認められた正式な皇帝だけでも20人あまり、各地で勝手に名乗った者を含めれば、その倍近くになる。238年には、1年のうちに6人が皇帝を名乗った。多くが軍に擁立され、軍に殺された。天寿を全うした皇帝は、ほとんどいない。

同時に起きたのは、北からのゲルマン諸族の侵入、東からのササン朝の攻勢、疫病、そして通貨の崩壊だった。東では224年にササン朝が興り(ササン朝の成立)、新しいペルシアの王朝は、かつてのアケメネス朝の領土を取り戻すと公言してローマの東方の属州を攻めた。北ではゴート人がドナウ川を越え、黒海とエーゲ海を船で荒らした。251年には皇帝デキウスがゴート人との戦いで戦死した。外敵との戦いで皇帝が命を落としたのは、これが初めてだった。

それより前の250年、デキウスは帝国のすべての住民に神々への犠牲を捧げるよう命じ、それを済ませた証明書を持たせた(デキウスの迫害)。帝国の危機を神々の怒りと考え、その加護を取り戻そうとしたものだったが、犠牲を拒んだキリスト教徒の多くが処刑された。同じころ、帝国の各地を疫病が襲った(キプリアヌスの疫病)。カルタゴの司教キプリアヌスが、その惨状を書き残している。何であったかは分かっていないが、10年以上にわたって繰り返し流行し、多くの人が死んだ。

デキウスの迫害に関わる図版:Byzantine icon St-Mercurius 1295
デキウスの迫害Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

260年、最悪の事態が起きた。皇帝ウァレリアヌスが、東方でササン朝の王シャープール1世と戦い、生きたまま捕らえられたのである。ローマ皇帝が敵の捕虜になったのは、前にも後にも例がない。ウァレリアヌスは捕らわれのまま死んだ。イランのナクシェ・ロスタムの岩壁には、馬上のシャープールの前にローマ皇帝がひざまずく浮き彫りがいまも残る。

軍の給料を払うため、皇帝たちは銀貨に混ぜる銀を減らし続けた。かつてはほぼ純銀に近かった銀貨は、3世紀の後半には、銀の含有量が数パーセントほどの、銀をうすく被せただけの銅貨になっていた。100年あまりで、銀はほとんど消えたことになる。貨幣の値打ちが落ち、物の値段が上がった。国は税を貨幣でなく、穀物や物で取り立てるようになった。

帝国は一度、三つに割れた。260年、ライン川の司令官ポストゥムスが皇帝を名乗り、ガリア、ブリタンニア、ヒスパニアを治めるガリア帝国が生まれた。東では、ササン朝を押し返したシリアの隊商都市パルミラの君主オダエナトゥスが力を持ち、その死後、妻のゼノビアがエジプトや小アジアの一部まで勢力を広げた(ゼノビアのパルミラ)。西にガリア帝国、東にパルミラ、中央にイタリアとバルカン、北アフリカを残した本体。どちらの国も、ローマから独立しようとしたというより、中央が守れない地域を自分たちで守ろうとしたものだった。

ガリア帝国に関わる図版:GallicEmpire262
ガリア帝国Wikimedia Commons Original - ArdadN ; edit - Wario2. · Public domain

それでも15年ほどで再統合された。270年に即位した軍人皇帝アウレリアヌスは、272年にパルミラを攻め落としてゼノビアを捕らえ、274年にはガリア帝国を降伏させた(アウレリアヌスの帝国再統一)。凱旋式でゼノビアは金の鎖をつけて引き回されたと伝えられる。アウレリアヌスは「世界の再建者」とたたえられた。一方で、守りきれないドナウ川の北のダキアは放棄し、首都ローマには新しい城壁を築かせた。何世紀も城壁を必要としなかった町が、ふたたび壁で身を守る時代になった。そのアウレリアヌスも、275年に側近の陰謀で殺されている。

立て直しを担ったのは、イリュリア出身の軍人皇帝たちだった。ドナウ川流域の兵士の出で、叩き上げの軍人として出世した人々である。その仕上げをしたのが、284年に即位したディオクレティアヌスだった。ディオクレティアヌスは、帝国を一人では治めきれないと見て、皇帝を4人に分けて分担させる仕組みを作り、属州を細かく分け、軍と官僚を大幅に増やした。物価の高騰にはディオクレティアヌスの最高価格令で対抗しようとしたが、うまくいかなかった。

最初の軍人皇帝マクシミヌス・トラクス
最初の軍人皇帝マクシミヌス・トラクスWikimedia Commons Public domain

そのやり方は、皇帝を神格化し、宮廷を儀礼で固め、官僚と軍を増やすというものになる。皇帝は「市民の第一人者」としてではなく、紫の衣をまとい、人々がその前にひれ伏す主人として振る舞うようになった。元首政(プリンキパトゥス)が専制君主政に変わる、と説明されてきた。ただし近年は、この二つをはっきり分ける見方そのものが見直されつつあり、変化は3世紀を通じて少しずつ進んだとも考えられている。増えた軍と官僚を養うための重い税は、のちの帝国の重荷になる。帝国は生き延びたが、別の帝国になって生き延びた。

出典(2)

塩野七生 『ローマ人の物語』XII 迷走する帝国
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第10章

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