エトルリアの都市国家
概要
イタリア中部に、言語の系統が分からない人びとの都市が並んだ。ローマは王をここから迎え、文字と占いと建築を学ぶ。
場所
42.25°N 11.76°E · イタリア・ラツィオ州
本文
イタリア半島の中部、北のアルノ川と南のテヴェレ川にはさまれた丘陵地を、古代の人びとはエトルリアと呼んだ。いまのトスカーナ州とその周辺にあたる。紀元前9世紀ごろ、ここにはヴィラノーヴァ文化と呼ばれる鉄器時代の村々があり、それが紀元前8世紀から7世紀にかけて、城壁と神殿を持つ都市へ育っていった。タルクィニア、カエレ(いまのチェルヴェーテリ)、ヴェイイ、ヴルチ、ヴォルシニイ、クルシウム、ペルシア、ヴォルテッラ。ギリシア人は彼らをテュレノイと呼び、その名はいまもティレニア海に残る。
この人びとの出自は、古代からの謎だった。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、小アジアのリュディアから飢饉を逃れて移ってきたと書き、のちのディオニュシオスは、もともとイタリアに住んでいた人びとだと反論した。近年の古代人の遺伝子の研究では、エトルリア人は周りのラテン人などと遺伝的にほとんど変わらず、土地の人びとだったと見る結果が出ている。それでも、言葉だけは周りとまったく違った。

エトルリア語は、ラテン語やギリシア語の属するインド・ヨーロッパ語族の言葉ではない。近い親戚と言えるのは、アルプスの一部やエーゲ海のレムノス島に残るわずかな碑文の言葉くらいである。文字はギリシア人から学んだアルファベットなので、音は読める。しかし意味の分かる語は限られ、残っている文章の多くは墓碑銘や奉納の短い文で、長いものはミイラの包帯に転用された麻布の祭儀書くらいしかない。
エトルリアの都市は一つの国にまとまることはなく、12の都市がゆるい同盟を作り、毎年ヴォルシニイ近くの聖域に集まって祭りを行ったとされる。都市を豊かにしたのは鉱山だった。トスカーナの丘とエルバ島からは銅と鉄が出て、海岸のポプロニアには製鉄の炉が並んだ。金属を求めてギリシア人とフェニキア人の船が来た。ギリシア人のクマエ植民からは文字と陶器と神々の物語が入ってきた。アテナイで焼かれた見事な彩色の壺は、今日、ギリシア本土よりもエトルリアの墓からのほうが多く見つかっていると言われるほどである。

タルクィニアの岩を掘った墓の壁には、宴会、踊り、楽士、狩りや漁の場面が明るい色で描かれている。カエレから出た「夫婦の陶棺」では、男女が一つの寝台に寄り添って横たわり、宴の席にいる姿で笑っている。エトルリアの女性は夫と並んで宴の席に着き、ローマの女性と違って自分の個人名を持ち、墓碑には父だけでなく母の名も記された。ギリシアの著述家テオポンポスはこれを、女たちが慎みを知らない証拠として書き立てた。ギリシアの宴では、妻は席に出なかったからである。
南の端の小さな町が、やがて彼らを呑み込む。ローマの建国の後、ローマは紀元前7世紀の末からエトルリア系のタルクィニウス家の王を戴いたと伝えられる。この時代にローマの湿地が干拓され、大下水道が掘られ、カピトリウムの丘に神殿が建ったとされる。羊の肝臓の形から神意を読む占い、官職の権威を示す斧を束ねた棒、高官の座る象牙の椅子、紫の縁取りのある衣は、ローマ人自身がエトルリア由来だと考えていた。剣闘士の試合やアーチの起源については、学説が分かれている。

紀元前509年、最後の王タルクィニウス・スペルブスが追われ(タルクィニウスの追放(王政の廃止))、ローマは共和政になる。その後、ローマは一つずつエトルリアの都市と戦った。紀元前396年、10年の包囲の末にヴェイイが落ち、紀元前3世紀の初めまでにほとんどの都市がローマの同盟市になった。紀元前90年、同盟市戦争のさなかに市民権が与えられると、人びとは急速にラテン語へ移っていく。紀元1世紀には、エトルリア語を話す人はほとんどいなくなっていた。
ローマ皇帝クラウディウスは、エトルリア人の歴史を20巻にわたって書いたとされる。エトルリア語を読めた最後の世代の一人だったかもしれない。その本は一冊も残っていない。